形代人形 参
学校帰りに男の子と待ち合わせる、なんて経験を清美はしたことがなかった。
清美の通っている学校は近隣でも有名な女子高。もちろん今時、男女交際禁止なんていう制度はないが、男子と接する機会が少ないのは事実で、また清美自身そういったことに積極的ではないこともあって、つまりこういうことに不慣れなのだった。
どこかそわそわと待ち人を探して、駅前通りを眺めていた清美だったのだが。こういう時の落ち着かなさというのは意識散漫で、むしろ無防備だったりするものだ。
「すみません、待たせて」
「はいっ!」
いきなり後ろから声をかけられ、清美は飛び上がるような返事をしてしまった。
「…………ほんと、すみません」
慌てて声のほうへ顔を向けると、そこには困り顔の弥上桂一郎が立っていた。
おそらくぼぅっとしている清美に、どう声をかけたものかと迷ったのだろう。曖昧なところにある手が気まずそうだ。
「いえっ、こちらこそ、」
すみませんと言いかけて、しかし清美は思わずまじまじと桂一郎に見入ってしまった。
(高校生、だったんだ)
昨日の電話で学校帰りに待ち合わせることを約束したのだが、それはつまり彼の都合でもあったわけで、よく考えれば分かりそうなことだったけれど実際にこうして見るまで清美は思いつきもしなかった。
桂一郎の姿は、一般的なブレザーの制服だったのだ。
紺色の上着にはこの辺りでは見かけたことのない校章がとめられていて、えんじ色のネクタイはあまり桂一郎に似合ってはいなかったが、現実味があった。
(学ランのほうが似合いそうだけど、さらに胡散臭い感じになりそう)
そんな失礼なことをつい思ってしまい。
「あの…………何か?」
「え? あ! ごめんなさい!」
桂一郎に尋ねられて、清美はつい謝ってしまった。
「はい?」
いきなり謝られた桂一郎は当然のようにびっくりした顔で首を傾げた。そんな彼に清美はたどたどしく言い訳を口にする。
「ええと、そのー、高校生だったんだな、と。てっきり、その、年上かと」
その清美の台詞に桂一郎がふっと苦笑いした。
「よく老けてるって言われる」
「え、えっと? そ、そういう意味ではなくて! しっかりしてるっていいますか、落ち着いてる感じですよっ?」
必死のフォローを試みる清美に、桂一郎は諦めたような溜息を吐いた。
「いや、いい。自覚してるし」
「そう……………ですか。た、大変なんですね」
疲れたようなその顔からは苦労が滲み出ていて、何と無しに彼が年上に見える理由が分かってしまったような清美だった。
「それはいいとして―――――話したいことっていうのは例の?」
「はい、人形のことなんですが。
それに…………ちょっと弥上さんに聞きたいこともあって」
そこで桂一郎は周りを見渡し、近くにあったファーストフードの店を指差した。
「下校中に買い食い禁止とか、今時ないですよね?」
「えっ? ああ。大丈夫です」
「じゃあ、話はあそこで」
促されるままに店内に入った清美だったが。
「そこの席をとっておいてもらえますか」
そう言われてから待つこと数分。
「はい、これどうぞ」
差し出された紅茶とパイは不意打ちだった。
「そんな、いいですよ! 呼び出したのはこちらなのに」
「いや、店に入ろうと言ったのは俺ですし。それに仕事先で女の子にお金を出させた、なんて知れたら怒られるんで。
それ引っ込めてください。どうせ受け取りませんから」
慌ててお金を払おうとした清美に、桂一郎はきっぱりと言った。
そうはっきり言われてしまうとお金を出すに出せなくなってしまう。じつに上手いやり方だ。
「でも……………悪いです」
財布を手に困り顔の清美に、桂一郎は苦笑いした。
「悪いのはこっちのほうですよ。正直、手詰まりでどうにもならない」
その表情がどこか曇って見えて。
お金を受け取ってもらうことを諦め、清美は財布を鞄にしまった。
「手詰まりって…………人形のことですよね?」
「そう」
そこで桂一郎は清美と向きあうと、「で、貴方は何が聞きたいんです?」と聞いてきた。
唐突に、空気が変わった、と清美は思った。
それまで桂一郎に付きまとっていた胡散臭さがふっと薄れた感覚を覚えて、でもその理由が分からないままに清美は口を開いた。
「聞きたいことっていうのは、人形のなかに封じられたっていう女性のことなんですけど。
彼女は、その、どうして人形のなかに封じられたんです? 理由があるんでしょう?」
しかし清美のその問いに桂一郎は眉をひそめ、思ってもいなかった言葉を投げかけた。
「信じてるんですか? 彼女の話」
「えっ?」
まさか万屋の彼がそんなことを言うなんて、どうして予想できただろう。
「人形の話、死んだ女性の魂の話を、現実にあったことだって。貴方は本気で思っているんですか?」
ひやりと冷たいものが清美の背中をつたった。
「だ、だって………母も、伯父も…………」
「それは他人のことです。貴方は関係ない」
彼の言っていることは今まで清美がさんざん自分に言い聞かせてきたことだった。
自分のこの感覚は気のせいだと。自分は関係ないのだと。ずっと言い聞かせてきた。
でもそれは目を逸らしていただけなのだと、この感覚は真実なんだと。清美は覚悟を決めたというのに。
「関係のないことじゃ、ないんです。私の問題でもあるんです。もうこのことは」
言いながら、清美は自分でも苦しい言い訳をしているように聞こえた。
霊だとか第六感だとか、そんな話などまるで信憑性なんかない。そもそも、どうしてこんな話を彼が信じるなどと思ったのか。
(このひとが自分と同じように感じているだなんて、勘違いして)
真剣に相談しようとしていた自分が馬鹿みたいだ。けれどこうなってしまえば、この感覚すら危うく思える。
自分もとうとうあの近藤家の人たちと同じように狂ってしまったということか。清美の頭のなかはぐるぐると混乱して、思わず涙がにじんだ。
そんな清美を桂一郎は無言で見つめ。
「鋭いってのは厄介だな」
どこか諦めにも似た声で言った。
「―――――え?」
何を言われたか分からなかった清美は、しかし桂一郎の顔を見て理解した。
(胡散臭かったのは―――――これを隠していたから、だったの)
揺るがない瞳の奥に深い緑色を湛えて、桂一郎は清美を覗き込んでいた。
清美には直感で分かった。これが―――――彼の正体だと。
「騙したんですか?」
「正確に言えば、試した」
「何の為に」
「……………覚悟があるのかを、知りたかった」
その桂一郎の言葉に、どうしてか清美は無性に腹が立った。
「こんな風に確かめなくても、とっくに分かることじゃないですか。覚悟がないなら、あなたと会ったりしてません」
「確かに。ただ――――――巻き込んでいいものか、迷ったんだ」
その躊躇ったような口調から彼が本気でそう思っていたことが分かって、清美はとりあえず溜飲を下げた。
「巻き込まれたなんて思いません。私が選んで決めたことです」
はっきりと口にする清美に、桂一郎は少しだけ瞳を伏せて呟いた。
「たぶん……………これが正しいんだろうな」
その桂一郎の顔はどこか苦しそうで。彼はきっと清美を巻き込むことを良しと思っていないのだろう。
だが視線をもどした桂一郎はそんな素振りなどなく、清美を真っ直ぐ見ていた。
「分かった。あんたには全部を話そう。だから、約束してくれ」
「何を?」
「この話を―――――一生、黙っていることを」
その言葉で清美には分かってしまった。
彼が〝万屋弥上、店主代理〟なんて胡散臭い役をわざと演じている理由が。いや、彼はそうでなくても演じなくてはいけないのかもしれない。
その異端の青年が普通に生きていく為には、真実を隠し通すしかないのだろう。
「私なら、大丈夫です」
思わず清美はそう言っていた。
「すべてを知って、それが表に出してはいけないことだとしても、後悔したりしません」
秘さなければならないことを知ることが、どれほど重荷になるか桂一郎は分かっているのだ。
それでも、清美は知りたいと思った。否、知らなくては、と。
「約束します」
その清美の確かな口調に一息吐いて、桂一郎は語りだした。
「魂が封じられた女性の名前は大島千代。死亡した時の年齢は二十四歳。子供を出産した一月後、自殺の名所だった崖から転落して亡くなっている。
万屋の記録には『近藤家に祟る彼女を封じた』とあった」
「祟る?」
「依頼人は近藤秀久さんで、近藤家を彷徨っている彼女を何とかしてほしいというものだった」
その桂一郎の説明に、清美は夢で見た女性を思い出した。
「祟るって…………彼女はそんなひとには、見えませんでしたけど」
そう呟くと、桂一郎が厳しい視線を向けた。
「会ったのか? 彼女に」
その勢いに思わずたじろいでしまう。
「会ったっていうか、見たんです。夢で」
「ああ、そうか。あんたも見るんだったな」
たぶん伯父たちから聞いていたのだろう、納得した桂一郎に清美は「でも」と付け足した。
「伯父達とは違う夢です。人形が、出てきていましたから」
「人形を夢で見た?」
清美は頷いた。
「そのことで、確認したいことがあるんです。私にはどうしてもあの人が祟っていたなんて思えない。
それに―――――どうしてお祖父ちゃんがあの人を封じるように頼んだのかも分からない。弥上さんなら、ご存知じゃないですか?」
その清美の問いに桂一郎は少し考えた後、「これは俺の予想なんだが」と口を開いた。
「たぶんあんたのお祖父さんは、彼女を消し去ることができなかったんだと思う。だから、封じるしかなかった」
「どういうことです?」
首を傾げる清美に桂一郎は説明した。
「霊をその場から去らせる方法は幾つかあるが、大きく言えば除霊と浄霊の二つに分けられる。
ものすごく簡単に言えばだが、除霊は力業でその場から霊を消し去る方法、浄霊は霊の無念をはらして自ら消えてもらう方法だ。
おそらく、秀久さんはそのどちらも選べなかった。彼女の無念をはらすことも、無理矢理消し去ることも、彼にはできなかった」
「――――――無念」
呟いて、清美は夢の中で泣いていた彼女を思い出す。
「近藤家への祟り、それはつまり彼女が近藤家を害するということだ」
「害する――――――彼女の存在が」
我が子の幸せを願うあの人の存在が、どうして害になるのか。
ふいに清美の耳にこだましたのは、あの人形の言葉だ。
――――私を、殺したのだから。
彼女は確かにそう言った。それは、つまり。
「彼女がそこにいること自体が―――害? 近藤家に彼女がいること、それ自体が、祟り?」
彼女の無念は、その想いは、とどいてはならない。真実が知られてしまうから―――?
気が付いた答えに、清美は呆然とした。
「あんたはどこまで知ってる」
桂一郎の声は相変わらず頭に染込むような冷たさがあった。
「たぶん、全部、です。ぜんぶ…………」
震える声を必死で押さえ込んで、清美は桂一郎を見た。
「お祖母ちゃんが、彼女を――――――千代さんを、殺したんですね? だから、お祖父ちゃんは千代さんを人形に封じたんだ。
真実を認めるわけにはいかなくて、でも千代さんを無理に消し去ることもできなくて」
「彼女の死因は自殺だ。警察もそう結論付けてる」
そんな桂一郎の言葉に、しかし清美は悲痛な声で聞く。
「本気で、信じてますか? それ」
「……………いや」
桂一郎も力なく首を振った。
そうなのだ。それが、真実なのだ。周りがどうそのことを結論付けても。黙され闇に秘される真実だってあるのだ。
「ありがとう、ございます。こんなこと……………教えたくなんかなかったですよね」
「ああ。できれば。でも、そういうわけにもいかなかった」
苦い顔をしている桂一郎に、清美は改めてこの青年の悲しさを知った。
(このひとは、何もかもを黙って背負うひとだ)
そうするのは彼の優しさなのか、それとも別の何かなのか。きっと彼はとうの昔に割り切ってしまっているんだろう。
でも―――――今回は、駄目だ。
これは、彼が背負うものじゃあない。絶対に。
だから清美は精一杯の強がりを言った。
「そうです、よね。きっと人形は、弥上さんじゃ、見つけられないもの」
自分は大丈夫だからと、あなたが背負っては駄目なのだと。
「…………だろうな。おそらくあんた以外の人間じゃ駄目だろう」
言葉の意味がちゃんと通じたのだろう、桂一郎が苦笑いをした。だから清美も笑ってみせた。
「あとこれは、ほんとに私の楽観的意見ですけど。本当は、お祖母ちゃんも見つけてもらいたいんじゃないかって思うんです」
甘い考えだとは自分でも思うけれど、そう願わずにはいられなかったから。
そんな清美を桂一郎はしげしげと見つめ、それからふうと息を吐いた。
「本当に、鋭いことばかり言う。あんたは、きっと間違った道なんか選ばないんだろうな」
「どういう意味です?」
「そのままの。あんたのすることは正しいって話」
そう言う彼の瞳は、真っ直ぐに清美を見ていて。
「…………ありがとうございます」
彼の目にそう映っているなら、いやたとえその台詞が励ましだとしても、清美は背筋を伸ばしていられる気がした。
「人形のある場所は、もう分かっているんだよな?」
「はい。たぶん………廊下の突き当たりにある納戸の奥の壁です。お祖母ちゃんが、そこに人形を」
「そうか―――――壁の中か」
険しい顔で呟くと桂一郎はしばらく考え込み、そして清美に聞いた。
「少しやりたいことがある。人形探しは来週、いや再来週の日曜まで待ってくれないか?」
「それは、もちろん、かまいませんけど」
人形探しはもともと彼の仕事だ。彼にも彼の都合があるのだろう。
桂一郎は「時間はまた後で連絡する」とだけ言った。
清美はもうそれ以上、桂一郎に何かを聞こうとは思わなかった。あとは流れに身を任せるより他にないと分かっていたから。その時がくれば、けして引き返せないことも。
覚悟を胸に、清美は自分の選んだ道が正しいことをただ祈った。
約束の日曜日。彼に伝えられた通りの時刻に近藤家を訪れた清美は、驚いて目を見張った。
そこにいたのは桂一郎だけではなかった。
「勝久叔父さん!」
ずっと行方が分からなかったその叔父を見て、清美ははっと気が付いてしまった。
(お祖父ちゃんと千代さんには…………子供がいた)
つまり―――――このひとは。
「やあ、清美ちゃん。ずいぶんと大きくなったね」
そう笑う叔父の顔が、どこか悲しそうに見えるのはきっと気のせいではないだろう。
「…………はい。お久しぶりです」
思わず硬くなってしまう声に、自分でも情けなく思う。
(ああ、もっと上手くできたらいいんだけど)
しかし叔父の隣で何知らぬ顔をしている桂一郎を見ると、やはりそれはそれでどうかと思ってしまう清美だ。
居間にそろったのは、伯父の幸秀とその妻の友恵、母の幸子と叔父の勝久、そして万屋の弥上桂一郎、清美を入れた六人だった。
「それで、今日はどうするんだ?」
「もちろん、人形を探します」
苛々とした口調の幸秀に、桂一郎は穏やかにしかしきっぱりと言った。
「ただ少し荒事になるかもしれません」
桂一郎の丁寧な言葉の奥に、ひやりとするものがある。
「どういうことだ?」
いぶかしむ面々に、桂一郎は清美を見つめながら告げた。
「人形は、壁の中にあります」
息を呑む幸秀に、桂一郎は了承を求めた。
「壁を壊すことになります。よろしいでしょうか?」
幸秀は少しだけ顔を歪めた。桂一郎の言葉を信じていいものか、そんな表情だった。
「それで見つかるのか、あれが」
「はい。必ず」
桂一郎の確かな返事に、伯父は「分かった」と頷いた。
「では―――――始めましょうか」
その言葉を合図のように、皆が立ち上がった。
桂一郎を先頭にして向かった先は、廊下の突き当たりの納戸。開かれた納戸の奥の闇に目を凝らして、清美は桂一郎に小さく頷いた。
桂一郎は清美とその闇を見つめて。
「ここです。この壁の奥に、人形があります」
そう言った。
皆がしばらく黙ったままその奥を見つめた。
「よし、確認しよう」
そう言ったのは叔父の勝久だった。
「お願いします」
桂一郎が退いて勝久に場所をゆずると、勝久は少しだけ立ち止まり、しかし納戸の中へと入った。
「確かに、一部だけ新しくなっているところがある」
納戸のなかを検めた勝久が「見ろ」と懐中電灯で壁を照らした。
光を当てれば一目瞭然、ぽっかりと白く新しい漆喰の跡が浮かび上がった。
幸秀や幸子は半信半疑といったようだが、それでも頷きあって、「中の物を出そう」と手を貸した。
納戸の中の物を廊下に出し終えると、いつの間に用意したのか桂一郎が鑿と金槌、それと新聞紙数枚を手に立っていた。
「あとは俺がやります。皆さんは下がっていてください」
桂一郎の言葉に手伝いの勝久以外が―桂一郎は両手がふさがってしまう為、懐中電灯で壁を照らす者が必要だった―外へと出た。
納戸の奥は懐中電灯の光に照らされて、清美が夢で見たのとそっくり同じにゆらゆらと映し出されている。
桂一郎は躊躇いもなく金槌を振りかぶり、鑿を壁に打ち付けた。かつん、という音と共にぱらぱらと削れる漆喰の壁。
皆は黙ったままそれを見つめていて、かつん、かつん、と壁を砕く音がただリズミカルに響く。
どのくらいそうしてその音を聞いていただろう、みしっという足音が聞こえた気がして、清美は後ろを振り返りそして悲鳴を飲み込んだ。
廊下の向こうに、着物姿の女が立っていた。
この屋敷を彷徨っていた、彼女が。
その顔はもう見間違えようがない。
(お祖母ちゃん!)
みしみしっと廊下が軋む。
どうして幸秀や幸子は気がついていないのだろう。髪を振り乱してこちらに近づいてくる、そのひとに!
―――許さない。許さないよ。
狂気に駆られた声が響く。
―――渡しゃしないよ。渡すもんか!
清美は思わず彼女に走りよった。
「もう止めて! 止めてよ、お祖母ちゃん!」
悪鬼のような妙子だけれど。そのありようが悲しくて清美は叫んでいた。
「憎んだって、怨んだって、お祖母ちゃんが辛いだけ。もう止めようよ!」
しかし彼女は止まらない。すがりつく清美を引きずりながら、ずるずると納戸の方へと進んでいく。
それを止めようと清美は必死で叫んだ。
「お祖母ちゃん! 私、知ってるの。お祖母ちゃんのしたこと」
切り札のような、その一言を口にした途端。
彼女の動きがぴたりと止まった。
―――私の、したこと。
そして悪鬼の顔がぐるりと清美に向けられる!
―――そう、私は罪を犯した! あの女のせいで!
骨ばった手が清美の肩をがっしりと捕まえ。
―――ああ憎い。あの女が。それ庇ったあのひとが。
その憎しみの力で彼女が清美を容赦なくぎりぎりと締め上げる。
―――憎い、憎い、憎い、憎い、憎い!
その凄まじい力に、思わず息が止まりそうになった。
「や、めて…………おばあ、ちゃん」
あぁ――――でも意識が途切れる、と、清美が思った瞬間。
「違いますよ。秀久さんが守ろうとしたのは千代さんじゃない」
静かな声が響いた。
思いの外、近くから聞こえた、と思ったら桂一郎は清美の傍らにいて、清美の腕をつかむとその場から引き剥がすように妙子の傍から退いた。
途端に身体を締め上げていた力がなくなって、自由になった肺は思わず咽こんだ。
そんな清美を守るように前に立ち、桂一郎は妙子を見据える。
「秀久さんが庇っていたのは、貴方ですよ」
―――何ですって?
ぎょろりと凄まじい形相でそう言う女だったが、桂一郎にはあの力が通用しないらしく、ただ激しく憎々しげに彼を睨み続けるだけだ。
その憎悪に燃える視線にも怯まず、桂一郎は妙子と向き合っている。
「秀久さんが千代さんを人形に封じたのは、真実を隠し通すためです。
万屋の記録には、依頼主が死亡していない場合は延長の可能性あり、とありました。秀久さんは生涯をかけて貴方を守ろうと、そう考えていたんですよ」
しかし悪鬼となった女は桂一郎の言葉を跳ね除けて叫んだ。
―――そんな話をどうやって信じろと。あの女を傍におきたかっただけじゃないか!
そこに。
―――信じてくださいませ、奥様。
凛とした声が割って入った。
声のした方を見れば、納戸から出てきた勝久が、あの人形を抱きかかえていた。
―――あのひとは、私を引き止めたくてこの人形を使ったのではありません。私の魂を慰める為などではないのです。
目を閉じていた人形が、今はその澄んだ硝子の瞳を開いて悪鬼を見つめていた。
―――あのひとは私の無念を知りながら人形に私を封じたのです。貴方を守る為に。
けして愛人を想ってそうしたわけではないのだと、人形は語っている。
彼女だけを想っていたのなら、きっと苦しむ彼女を封じようとは考えなかったはずだと。
悲しげな顔で人形は妙子に訴えた。
―――奥様、お約束します。私はこれからどこへ逝こうとも、けして秀久さんには逢いません。ですから、どうぞ、もうお許しください。
その言葉を妙子は嗤った。
―――見え透いた嘘を言うでないわ! お互い愛し合っていたというのに。
しかし千代は首を振り、しかと妙子を見つめて言った。
―――もとより決めていたことです。もう逢わぬ、と。
堅い決意を込めた言葉だった。
―――ですから奥様、どうか。どうか、あのひとが貴方を想っていたことだけは、信じてくださいませ。
その真剣な眼差しに、妙子はついに黙った。
人形の瞳に安堵が浮かび、それと同時にするりと人の形をしたものがまるで二重映しのように人形に重なった。
清美には分かった。封じられていた彼女の魂が今、開放されることが。
―――最後に私の願いも叶いました。ありがとうございます。
彼女の目は人形を抱いている勝久へと注がれていて。桂一郎が何故「待ってくれ」と言ったのかが清美には分かった。
―――どうか奥様の願いも、叶いますよう。
祈るような彼女の輪郭がぼやけて、消えていく。
廊下に佇む、もう一人の女を残して。
今、消えて逝く。
「お祖母ちゃん、もう止めよう。もうこれ以上、苦しまないで………」
完全に気配の消えてしまった人形に清美は心の底から思った。妙子も解放されるべきだ、と。
どんな罪を犯したとしても、もう十分彼女は苦しんだはずだ。そうでなくて、どうしてこんな姿になろう。
―――信じろ、などと。あの女………最後まで、図々しい。
しかしそう言う彼女の顔には、もうあの憎しみはない。
―――許されないのは、私の方だというのに。
嫉妬と罪の意識に苛まれ、長く苦しんだ女がそこにいるだけだった。
「でも、千代さんも秀久さんも貴方を許していた。もういいでしょう」
その為の形代人形だった。
すべては、罪を犯した彼女を守る為の。
―――流せるものならば。
力なく呟いた妙子に、桂一郎は何も言わず静かに頷いた。
それを見た妙子は少しだけ顔を歪めて、それでも諦めたように微笑んだ。
その姿が千代と同じように滲んでぼやけていく。
辺りがとても静かだった。それはどこか悲しく、けれど明るくて。
ああ、このお芝居の最後に相応しいと、そんな風に清美はぼんやりと思ったのだった。
不思議なことに、妙子と千代のそのやり取りを覚えているのは、清美と桂一郎だけだったらしい。
幸秀はもとより勝久にさえあの光景が見えていなかったようで、大人達はわけが分からないといった風に清美と桂一郎とを見ていた。
「すべて終わりました」
そう言った桂一郎に、我に返った勝久が人形に目を落とした。
「じゃあ、」
言葉の続きを勝久は言わなかったが、桂一郎は彼に頷いた。
「もうそこに彼女はいません。おそらく皆さんが見ていた夢も、今後見ることはないでしょう。全部、終わったことです」
桂一郎の言葉に勝久は一瞬複雑そうな顔をしたが、もう一度人形を見、そしてそれをそっと桂一郎に差し出した。
「これで俺の仕事は終わりです。皆さん、ご協力、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げて勝久から人形を受け取ると、桂一郎はくるりと背を向けて廊下を歩いていってしまう。
清美は慌ててそんな彼の後を追った。
「あの、弥上さん」
何も言わずに行ってしまいそうな桂一郎に思わず声をかけると。
「……………助かった。こんなに上手く事がはこんだのは、きっとあんたのおかげだ」
緑色のあの眼差しをもう隠そうとはせず、清美を見て桂一郎がぽつりと言った。
「そんな、私がしたことなんて」
面と向かってそんなことを言われると困ってしまう。だって、本当にたいしたことなんてしていないのだ。
そんな清美に桂一郎は苦笑いした。
「言っただろ、きっと間違えないって」
その微笑みがどこか悲しく見えて、彼に何かを言ってあげたくなったけれど。
何を言ったら良いか分からなくて、けっきょくどうでもいい言葉を投げかけるしかなかった。
「それ、どうするんです? そのまま持っていくんですか?」
「まさか。ちゃんと箱を用意してある」
見れば玄関には桐の箱があり、桂一郎はそれに人形を丁寧に納めた。
それを眺めていたら、後ろから声をかけられた。
「大丈夫かい? 駅まで送ろうか」
現れたのは勝久だった。
「いえ、大丈夫です。一人で運べます」
その申し出を断り、桂一郎がまた深々と頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「いや、礼を言わなくちゃいけないのはこっちの方だろう。それで、その………あの人は―――」
言いよどむ勝久に桂一郎は穏やかに告げた。
「最後に願いが叶った、と言っていました。…………幸せそうでしたよ」
どこまでこの叔父は知っているのだろう。そう思ったけれど清美は何も言わずに二人のやり取りを見守った。
真実は、きっとそれぞれの胸のうちに秘されるべきものだから。
ふっと勝久の顔に浮かんだのは、安堵とも哀しみともつかないもので。
「そうか―――――ありがとう」
そっとお礼を言う勝久に、清美は改めて桂一郎の強さを思った。
(私も…………なれるかな)
真実を胸に秘めてなお、こんな風に人を救える人間に。自分もなれるだろうか。
すっかり仕度を整えた桂一郎は、勝久と事後処理について幾つか言葉を交わし、どうやらこのまま近藤家を去ることになったらしい。少し苦笑いしながら「じゃあ、お言葉に甘えて、後はよろしくお願いします」と言った。
清美は少し迷って、それでも玄関の靴に足をいれた。
「そこまで見送っても?」
「――――ああ」
頷く桂一郎にほっとして、歩く彼の隣に並んだ。
「ひとつ聞きたいことがあるんですけど」
「何を?」
促すように首を傾げる桂一郎に、清美は最後まで心に引っかかっていたことを聞いた。
「お祖父ちゃんは、千代さんのことが見えていたんでしょうか?」
そんな清美の疑問に、桂一郎は「ああ」と頷いて答えた。
「おそらく秀久さんには、もともとそういうものを感じ取れる力があったんだろう。だから娘の八重子さんや孫のあんたが夢を見たんだろうな」
「じゃあ、やっぱり、お祖父ちゃんはぜんぶ解っていて」
「ああ。だからこそ、形代人形を使ったんだろう」
千代の無念をそのままにしておいたら、身内の誰かが真実に気がついてしまうかもしれない。秀久はそれを危惧したのだろう。そしてその予想は当たっていたのだ。
桂一郎は難しい顔をして、それからふっと息を吐いた。
「ああいうのを感じ取れるっていうのは、確かに良い事ばかりじゃない」
そこで彼は足を止め、清美を正面から見つめた。
すべてを見透かす、あの深い緑色の瞳で。
「でも、あんたなら大丈夫だ」
桂一郎は、確かにそう言った。
それは希望的楽観にすぎないのかもしれない。けれど―――――彼の瞳にそう映るならば。
「はい」
頷く清美に桂一郎は「じゃあ」と微笑んだ。
それが彼と交わした、最後の言葉。
清美は屋敷の門の前で足を止め、軽く会釈して出て行く桂一郎を見送った。
振り返らずにいく、景色に溶けるような桂一郎の後姿は、初めて会ったあの黄昏と同じで。それでも清美はもうそれを穏やかに見ていられる。
あの時とは確実に違う自分のなかの何か。はっきりと感じるその感覚を胸に。
清美は彼の消えた夕闇を前に、ただ静かに佇んだ。
あれから半年後――――妙子は静かに息を引き取った。
弔問客のなかに弥上の名前があったので桂一郎を探したが見つからなかった。
彼と会うことは二度とないだろう。それはどこか確信めいた予感だ。
もう彼に会う必要はない。あの眼差しがなくとも、もう清美は自分の力から目を逸らしたりはしないから。
妙子が息を引き取る間際に見た夢を思い出し、清美は自然と微笑んだ。
病室で眠る妙子の傍らには秀久がいて、穏やかに手を差し伸べていた。目覚めた妙子はそっとそれに自分の手を重ね、何も言わずに秀久を見つめた。
そんな妙子に秀久はただ優しく頷いて、二人は連れ添って病室を出て行った。そんな、夢だった。
それが清美の作り出した夢なのか、はたまた真実なのかは分からない。それでも。
妙子の願いは叶ったのだと、清美はそう信じている。
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