水鏡 壱



 どうか今度こそ、と、そう願うのに。上手くいかなくて、また同じことの繰り返し。

 それでも諦めきれないのは贖罪か。それとも救えなかった者の代わりか。そんなことは、もう分からない。

 ただそれは諦めきれずに繰り返す。どうかどうか、今度こそは、と。



 薄暗い部屋の中で、男は明かりもつけずにじっとそこにいた。

 彼の目の前にある四角い風呂敷包みは、今しがた帰ったばかりの客がおいていったものだ。

 彼は「ふむ」と一つ頷いて、その風呂敷包みを解いた。

 出てきたのは木でしつらえられた正方形の箱。ちょうど両腕にのるほどのそれは、ずしりと重い。

 その木箱の蓋を躊躇いもなく開け、彼はまたしばらく黙ったままそのなかを眺めた。

 ―――ヒロ、それが今度の依頼なの?

 囁くような、常人には聞こえぬ声が彼に問いかける。

「そう…………なんだがね。さて、どうしたもんかね」

 困ったような台詞なのに、声の調子も顔もちっともそれにそぐわない。

 そんな彼の様子に鏡台から覗いていた女が嘆きの声を漏らした。

 ―――そんな風に言って、どうせまたケイに押し付ける気でしょう? ダメな大人ね。

「いやいや、それはあれだ。子供を成長させるために仕方なくそういうことをしているんであって、別にケイに仕事を押し付けてるわけじゃあない」

 ―――でも結局、貴方は仕事しないんじゃない!

 この痛い指摘は棚の上に腰を下ろしている幼女を模った人形からだったが。

「おいおい、あまり人聞きの悪いことを言ってくれるなよ」

 苦笑いを浮かべているものの、男はそれに堪えている様子などこれっぽっちもない。

 まるで糠に釘、暖簾に腕押し。男はひょうひょうとした空気を纏って。

「仕事ならしてるじゃあないか。なあ?」

 くつくつと肩を揺らながら座敷を見渡す。

 そこにあるのは、無数の道具達。その一つ一つが彼に呼応するかのように小波を打った。

 在るものは笑いながら、在るものは怒りながら、強く弱く。

 けれど、いずれもそのすべては彼を肯定する。ここに在るものを管理しているのは、まぎれもなく彼だからだ。

 そこにいるモノ達は彼の仕事を認めるしかない。

 彼の名は弥上忠弘。万屋弥上の店主、そのひとなのだから。



 弥上忠弘は四十も近くの独り身で、一応民俗学者なる肩書きは持つものの、万屋の奥に引き篭もっているのが常だという、つまりはただの変人だ。

 ―――まったく、本当にどうにかならないのかしら、このグウタラな男は!

 憤慨しながらそう言うのは、幼女を模った人形で名を鈴という。

 先日この店に帰ってきたばかりの彼女は、この新しい店主には我慢がならないらしい。

「やれやれ、鈴は手厳しいな。俺のどこが不満だって言うんだ」

 ―――そういういい加減なところよ! まったく、冗談じゃないわ。久々に帰ってみれば、こんなのが店主をやっているだなんて!

 そんな彼女の怒りをなだめているのは、鏡台のなかに棲んでいる涼だ。

 ―――でもねぇ、いい加減でないヒロなんて、もうヒロじゃあないのよ、鈴。このひとがまともになるときといったら、きっと死ぬ時くらいよ?

 ―――だから冗談じゃないと言ってるのよ! ダメさがウリの店主なんて!

「お前達、俺をなんだと思っているんだ」

 しかしそうは言ってみせるものの、まったくフォローになっていない涼の言葉もダメだし連発の鈴の言葉も、この忠弘にかかればまったく意味のないものになってしまう。

 否、それが解かっているからこそ二人の会話はこうなのだ。

 ―――ヒロは店主よ、間違いなく。まあもうすこぉし、しっかりしてほしいとは思うけれど。

 ―――ああ、もう! お涼ちゃんってば、甘すぎよ! そんなだから、この駄目男がしっかりしないのよ!

「しっかり、ねぇ…………そんなにしてないかあ?」

 心外だと言うその男に、二人は。

 ―――鏡見なさいよ、アンタ。

 ―――ヒロ………自覚はもって頂戴ね?

 実に冷たい声で言い放った。

 ぼやきながらぽりぽりと掻く顎は無精髭だらけ。伸び放題に伸びた髪は軽く括ってあるだけで、そのだらしなさは着崩れた着物からして一目で判る。

 つまり――――外見からして説得力の欠片もないのだ。

「そんなに酷いか?」

 そうあっけらかんと言う忠弘は、己の姿なんて省みないだろうことは明白だ。

 ―――本当に桂一郎が可哀相でならないわ。貴方みたいなひとの面倒をみなくちゃならないなんて。

 鈴が嫌味半分に言えば、それについては各々思うところがあるらしく、涼も忠弘も思案顔をした。

 ―――そうねぇ。あの子ったら、まだ子共なのに大人みたいな立ち振る舞いなんかしちゃって。少し不憫よね。

 悩ましげに頬に手をついて、涼が心配そうに少しだけ目を伏せる。

 ―――この店にきたばかりの頃はもっと可愛げがあったのに。いつの間にかあんな風になっちゃったのよねぇ。

「だよなぁ、いつからあんな冷めた目をするようになったんだか」

 対して、後の発言者はまるで笑い話かの様な軽い口調だ。

 鈴は半眼でそんな忠弘を睨んだ。

 ―――きっとアンタのせいなんでしょうよ。

 しかし忠弘はどこ吹く風。

「まあ、俺のせいってだけじゃあないよな」

 と、言い訳なのか責任逃れなのかよく分からない言葉を吐いている。

 そこに後ろからぼそりと一言。

「でも原因の一端ではあるよな」

 噂をすればなんとやらというやつで、桂一郎が学生鞄を片手にたたきに立っていた。

 ―――あら、おかえりなさい。

「ただいま」

 柔らかな涼の声にそう返して桂一郎が座敷に上がる。

 それを待ちかねていたかのように忠弘は満面の笑顔を向けた。

「ナイスなタイミングだ、ケイ」

 その様子に大方の予想がついた桂一郎は、げんなりとした顔をした。

「また仕事か」

「まぁな」

 悪びれる様子など微塵も見せない忠弘に桂一郎は溜息を吐く。

「自分でやれよ。お前の仕事だろ」

「お前を使うことも俺の仕事のうちだ。俺が見るよりお前が見たほうが正確なんだからしょうがない」

 とんでもなく横柄な理由を堂々とのたまって、忠弘はずいと桂一郎の前に箱を押し出した。

「さて。お前、これが何に見える」

 木箱の中身は陶器、それも平たい器のようだ。色は赤褐色なのだが、上品な印象を受けるのはきっと良い品だからなのだろう。

 それをじっと見つめ、

「皿、じゃないな。水の気配がする。水盆、か?」

 桂一郎が答えると、忠弘がにやりと笑った。

「当たり。華道の師匠から譲り受けた物だそうだ」

 解っていてあえて聞くその真意は果たして親心か、はたまた意地が悪いだけなのか。

 どちらにせよ腹の立つことだ。が、それを口にしても改善されないことは―むしろさらにからかわれるだけなのは―桂一郎にもよくよく分かっていた。伊達に長くこの店にいるわけじゃない。

 だからそのことを言及するのは諦めて。

「で?」

 と、桂一郎が問えば。

「どうも、これを未婚の女性が手にすると不幸になるらしい」

 忠弘はなんとも物騒なことをさらりと言った。

「ありがちな話だな」

「応。だからうちに持ち込まれたんだよ。呪いを解いて欲しいってな」

「ってことは、持ってきたのは女の人か」

「ああ。しかも婚約中の、幸せはこれからってひとだ」

 顔をしかめて桂一郎は水盆をじっと見つめる。

「呪い…………か。確かに憑いてるよ、これ。しかも女の人だ」

 しかしそうは言うものの、桂一郎はどこか腑に落ちないような顔をしていて、忠弘もまた首を捻る。

「そうなのか? じゃあやっぱり、ありがちな恨みの線か」

「邪気は感じないけど」

 慎重に気配を探りながら水盆を観察していた桂一郎が、底にある僅かな赤い跡に眉をひそめた。

「これ―――――血か?」

「だな」

 示されて注視した忠弘も重く頷く。

 その血から連想されるのは、あまり良いものではない。何とも言えない沈黙が二人に下りた。

 だが、その嫌な空気を振り払うように桂一郎が首を振った。

「でも―――恨みとは少し違う気がする。どこが違うのかは、まだ分からないけど」

 あまり早計なことはしたくない、と桂一郎は忠弘に向き直った。

「少し時間をくれ。引き出してみるから」

「分かった。じゃあ、頼む」

 水盆を木箱ごと桂一郎に託して、忠弘が「ああ」と付け足した。

「今回の客はちと面倒そうだから俺が相手する。お前は見るだけ見てくれたらいい。あとはこっちで勝手にやるさ」

 見るだけ見て、あとは関わるなとは、ずいぶん身勝手なものだ。

 だがそんな忠弘の言葉にも、桂一郎が不服げな顔をしたのは一瞬だ。

「分かった」

 結局溜息を吐くと、桂一郎はそれ以上何も言わずに部屋をあとにした。



 桂一郎が出て行った部屋で、さて一息と煙草をくわえた忠弘に、見ていた鈴が―まったくもう! と文句つけた。

 ―――本当に桂一郎に任せるのね。確かに見る目は桂一郎の方が確かでしょうけど。あんな風に丸投げするなんて!

 しかし、もちろんそんな言葉に負ける忠弘じゃあない。

「ほんと、ケイのヤツが優秀で助かるよ」

 くくくっと笑いながらそう言う忠弘に、鈴は呆れて文句をつける気も失せたらしい、溜息を吐いて別の話題を持ち出した。

 ―――ねぇ、桂一郎はどうしてこの店にいるの? まさかとは思うけれど、忠弘の実の子なの?

 忠弘が万屋の店主になったことも知らなかった鈴だ。興味本意も手伝って彼女の暇つぶしは目下、今の万屋についての情報収集だったりする。

「まさか。つーか俺を幾つだと思ってんだ」

 呆れたように忠弘が言うと、鈴も―――そうよね。と認めた。

 確かに忠弘の子供と見るには、桂一郎は大きすぎる。

 ―――じゃあ、どうしてなのよ。

 そう聞く鈴に、忠弘は茶化すような―それでいてどこか剣呑な―調子で言った。

「あいつは、神様の子だよ」

 そんな忠弘の言葉に、案の定、鈴は怪訝そうな声をあげた。

 ―――神様の子? って何よ、それ。

「そう、神様の子、だ」

 そこで火をつけた煙草を吸い込んで忠弘はふっと苦笑いした。

 こうして聞かれるまで思い出しもしなかった―否、あえて掘り返さなかった―記憶なのだと、忠弘は今更に気がついたのだ。

(それだけケイは俺の心に触れるもの、ってことなのかね)

 記憶の奥深いところに仕舞っておかねばならないような、そんな存在。

 ―――神様の子、ねぇ? 私が言うのも何だけれど、眉唾ものよね。

 眉をひそめて鈴が言えば、忠弘は懐かしむように頷いた。

「そうだな。あの状況を見てなきゃ、俺も信じなかったさ」

 もう十年も前なのかと思うとひどく感慨深い。あれはまだ桂一郎が、七つになる前だったはずだ。

 それはまだ、ひとが人間ではないとされる頃。いわゆる、七つまでは神のうち、というあの言葉の通りに、幼かった桂一郎。

 ―――でも………ケイは、ひとでしょう?

 鈴が忠弘に尋ねた。すると。

「ああ。少なくとも身体は、な」

 忠弘から意味深な言葉が返ってきた。

 ―――それじゃあ、まるで他はひとじゃないみたいな………。

 そこで鈴は、はたと気がついた。

 桂一郎は自分達に―そう、目の前にいる万屋の店主よりも―近い存在だということに。

 そして、先ほど忠弘が言っていた「神様の子」という名。

 ―――ねぇ、それって、まさか。

 思い当たったものは口にするのも躊躇われるような、そんな考えだった。しかし忠弘は黙って煙草をくゆらせるだけ。

 鈴の声が、自然と固くなった。

 ―――ケイは、ああなるように作られたの? まさか…………ひとに?

 想像しただけで寒気がする、そんな所業を。桂一郎は受けていたと、そういうことなのか。

 否定して欲しいと願う鈴の問いに、けれど忠弘はゆっくり煙を吐いて顔を歪めるだけだ。

「俺も確認したわけじゃあない。でも、それしか考えられない」

 山奥の、どうやって生計を立てているか分からないような村。その村の深く。滝の裏にあった社の、さらに奥に。

 出生届も出されていなかった子供がいた。深い緑を湛えた、あの瞳を持って。

 偶発的に、と考えるには、あまりにでき過ぎていた。

 ―――今時、そんなことってあるかしら。そんな儀式をする、なんてことが。

 鈴の声は悲しみとも苦しみともつかなくて。忠弘は苦い顔で吐き出すように言った。

「したんだろーよ。でなきゃあ、あんなになるもんか」

 息をするように人外の世界に溶け込んで神代さえ見通せる。あんな力、どうしたら身につくというのか。

 歪んだ欲望の果てにつくられた、哀れな神様の子。

 ―――それで、万屋が引き受けたの。

 話の内容はともかくとして、桂一郎がここにいる理由は納得したと頷く鈴に、けれど忠弘は曖昧に笑うだけだ。

「…………そうなるのかね、一応」

 ―――どういうこと?

 忠弘は煙草を吸い込み、ふぅと吐き出す。吐き出された煙がゆらゆらとあたりを漂った。

 それをぼうと見つめて。

「正直、ケイについては俺もよく解らん。ただ――――頼まれた、んだろーなぁ」

 忠弘は呟いた。

 社の奥にいたのは、まだ七つになる前の子供とその母親だった。

 そお母親は、「もう、この子はここにはいられない」と言った。だからと、母親は泣いて忠弘に頼んだのだ。

 この子を連れて行って、と。手遅れにならないうちに、と。彼女は間違いなく、その子の母親だった。

(でも…………子供の産みの親は、あの後、白骨で発見された)

 だとするなら、彼女は。

 ―――ヒロ?

 過去に思いをはせていた忠弘に、鈴が不安げに声をかける。少々意識を飛ばしすぎたようだ。

 考え事がすぎると忠弘は抜け殻のような目をしているらしい。それが恐ろしいと、かつてそう言われた事も覚えているから。

 忠弘はにやりと鈴に笑ってやる。

「何にせよ、万屋はケイを請け負うさ。ここはその為の店なんだからな」

 それだけは確かなことだ、と。そして、それだけで彼がここにいる理由は充分なのだと。

 万屋弥上の店主たる彼の目は静かにそう語った。



 自室に戻った桂一郎は鞄を置いて、まず木箱から水盆を取り出してみた。

 慎重に取り出したそれは、水盆なだけあって結構な重さがある。とりあえずそれを畳の上に置き、桂一郎はじっと目を凝らした。

 感じる気配を映像として重ねていくその作業は、夕闇に目を慣らす作業にも似ている。薄ぼんやりとした影を、はっきりと見定めるような。

 その、はっきりと映らない何かは、幼い頃から桂一郎にとって当たり前のように傍にあったもので。それが当たり前でないと彼が理解したのは、この万屋に来てからだった。

 何か、を、はっきりと見ようとしたことなどなくて―それは当たり前すぎて―初めは戸惑ったりもしたけれど、そうしなくてはここでは生きていけないということも教わった。

 この現世では―自分を含めた―その何か、はひどく危険な物なのだと知った。だからこそ、桂一郎はじっと注視する。そこにあるものが、何なのか、を。

「何か、伝えたいことでも?」

 桂一郎が問いかければ、応えるように影がゆらりと動いた。

 ―――水、を。

 響いたのは、擦れた声だ。

「…………判った」

 迷ったが、桂一郎は頷いた。

 洗面所から水差しに水を入れてもどり、慎重にそれを注ぐ。ゆらり、ゆらりと、満たされていく器。それと共に濃くなる気配。

 影が、はっきりと形をとって、覗きこんでいた水面が僅かに波紋を描いた、と思った途端。

(水が、赤、く…………っ)

 くらり、と桂一郎の視界が歪んだ。

 ―――いっては、いけない………。

 聞こえる声は脳に直接差し込まれたようだった。

 ―――いってはいけない。

 ああ、彼女が泣いている、と桂一郎には分かった。

 ―――私には解る。いってはいけない。

 映るのは水鏡。その波紋には若い女性とそれを殴っている男が垣間見えて。それを一人の女が覗き込んでいる。

 ―――解っているのに。私には解っていたはずなのに。

 彼女の涙が零れる度に、幾つも幾つも女達の不幸が映し出される。

 ―――どうしてあの子を助けてあげられないの。

 頭に直接流れ込んでくるような、その嘆き。

(駄目、だ。呑まれるな)

 その感情に流されぬよう、桂一郎は意識を集中させる。これは彼女の想いであって、自分のものではないのだと。

「…………あんた、何者だ」

 桂一郎の問いかけに、彼女は面を上げて、

 ―――母でございます。

 涙を流しながらそう言った。

「母?」

 ―――はい。殺された花嫁の、母親にございます。

 わっと彼女が泣き崩れるのと同時に、フラッシュバックのように―あるはずのない―記憶が桂一郎の脳裏を駆け巡った。

 そこには、花嫁姿の若い女がいた。けれど、その顔は晴れやかではなかった。

 ―――ねえ、これでいいのよね?

 不安げに聞いてくる彼女を励ますように、迷いを振り切るようにぎゅっと手を握る。

 ―――あたりまえですよ。貴方は幸せになるんです。そうに決まっています。

 言葉とは裏腹に、嫁ぎ先を見れば胸騒ぎを覚えたけれど。晴れの日に言うべきではないと、それを無視して微笑んだ。

 ―――大丈夫ですよ。

 そう言って彼女を送り出したのが最後。次に会う時には、彼女もう生きてはいなかった。

 白い布がかけられた娘に縋って。どうして、と泣いた。何故こんなことに、と。

 嫁ぎ先はけんもほろろに、「勝手に死んだのだ」と言った。そんな馬鹿なことがあるものか、何かがあったはず、と追求すれば被害妄想だと罵られた。

 納得などできなかったが、証があるわけでもない。黙るしかなかった彼女だったけれど、せめてと娘が大事にしていた水盆を形見分けしてもらったとき、そこにある僅かな血の跡に悟ってしまった。

 娘は、この家に殺されたのだと。それが真実だと、直感的に確信してしまった。

 ―――ああ、私はどこかで分かっていたはずなのに。

 悔しくて情けなくて、憤りはむしろ自分に対して向かった。

 ―――私は、あの子を見殺しにしてしまった。

 ゆらゆらと揺れる水盆を覗き込めば、娘の苦しむ顔が見えるようで。母親はついに耐え切れず―――――。

(ッツ――――――戻れ!)

 桂一郎は急いで意識を外に向けた。

 これ以上、その記憶に付き合ってはいけない。精神は時に身体を侵食して傷つける。死の体験に同調などすれば、ひとたまりもないことを桂一郎はすでに知っていた。

「―――――っつ、は、あッ」

 無理矢理に夢から覚醒したあとみたいに、意識の追いつかない頭はぐるぐるとかき回されたようだった。

 目が回るし吐き気もするが、幸い身体はどこも痛まない。これでもまだマシなほうだ。

「は、あぁ…………危なかった、か」

 息を整えて、思わずこぼれ出た自分の言葉に桂一郎は顔を歪めた。

(まだ、こんななのか)

 震えている手をきつく握り締めて、ごつりと額に押し当てる。

 まさか、あんなにも同調してしまうとは思っていなかったのだ。

 意識的に何かを見ようとした結果なのだが、その辺りの按配というものを、桂一郎はまだ読み違えてしまう。ようは詰めが甘いということだ。

 けれど、それでは駄目なのだ。己が力をもっとしっかり使いこなせるようにならねば――――。

(意味が、ない)

 開いた手の平はじっとりと汗ばんでいて。それを苛立たしげに見つめ、桂一郎はまた一つ溜息を吐いた。










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