雑記 紫陽花
雨の日は視界が悪い。
目が悪いせいってのもあるんだろうけれど、雨で潤んだ世界はすべてがぼやけてしまうから。
はたはたと、まるで幻聴を誘うかのような雨の音のなか。すべてがぼんやりとした、雨降りの日に。
僕はその子に出会った。
大学からの帰り道、何の気なしにいつもと違う道を通り抜けたその途中に、彼女がいた。
その子は少女というには、少し幼かった。五、六歳ぐらいだろう女の子が、傘も差さずに大きなお屋敷の前で佇んでいた。
(ここの家の子かな?)
そう思ったものの、雨に濡れたままそこを動こうとしないその子が気になった。
何か事情があるのかもしれない。
「そんなところにいたら濡れちゃうよ」
声をかけると、女の子はびっくりして振り向いた。
あまりにびっくりした様子だったから、声をかけたことをすまなく思ってしまったくらいだ。
けれど声をかけてしまった手前、あとに引けずに僕は女の子に話しかけた。
「風邪、ひいちゃうよ。せめてそこのひさしの中に入りなよ」
優しく、できるだけ怯えさせないようにそう促すと、彼女はまるで不思議なものを見るように、まじまじと僕を見上げてきた。
「どうしたの?」
あまりにじっと見つめてくるので、僕は腰をかがめて女の子と目線を合わせて聞いた。
そうした方が話しやすいかと思ったんだけど。そしたら彼女はその姿勢の僕に飛びついてきた。
屈んでいた僕はあっさり彼女に抱きしめられてしまった。
雨に濡れているわりにどこかぱりっとした小さな腕が、ぎゅっと僕の肩にしがみつく。触れられたシャツはすぐに灰色の染みをつくった。
僕はちょっと戸惑ったけれど、それでも女の子を抱えて背中を優しく撫でてあげた。
「大丈夫?」
そう聞くと、彼女は僕にしがみついたまま呟いた。
「連れていって」
小さく響いたその声は、まるで雨音みたいだった。
僕は正直、困った。だってそうだろう。そんなお願いなんて聞けっこない。
「……………駄目だよ。君は、ここの家の子だろ?」
そう言うと、彼女は僕から離れて悲しそうにこくりと頷いた。まるで望みを絶たれたような、そんな顔で。
だから思わず、言い訳のように僕は言った。
「君のいるべき場所ここだろう? だったら、ここにいなくちゃあ」
その瞬間、女の子は震えて、それから悲痛な顔で屋敷を見た。
これはただごとではなさそうだ。
(何か、あるんだろうか?)
もしかしたら僕はとんでもなく残酷なことを言ってしまったんじゃあないか。不安にかられた僕をよそに、女の子はくるりと身を翻していってしまう。
何かを振り切るような小さな背中に、僕は何の言葉もかけられなかった。
そうして彼女の姿はまるで吸い込まれるように門をくぐり、その向こうに咲き誇る、見事なまでの紫陽花にまぎれて消えた。
それから数日たった、まるで梅雨明けかと思えるほど晴れた日のこと。通りかかったあの屋敷から轟音が聞こえた。
見れば重機が入り、建物を取り壊している真っ最中だった。
「壊すんですか、ここ」
思わず近くにいた中年の男性にそう尋ねると、彼は「ええ」とすぐに答えてくれた。
「そう、ですか」
思わず庭を覗き込めば、紫陽花の花がまるで何かの時を待つように頭を垂れていた。
そのなかに―――――まだ背丈の小さな紫陽花を見つけて。どうしてだか、あの女の子を思い出した。
「あの…………この紫陽花達って、どうなるんです」
何となく予想はできていたけれど、僕はそう聞いた。
聞かれた男性はちょっと驚いて僕を見つめ、それからどこか気まずそうに言った。
「屋敷と一緒に、埋め立てるんです」
そして彼も僕と同じように庭を見つめたから、もしかしたらこの屋敷の関係者なのかもしれなかった。
ふいに庭の小さな紫陽花が、まるで僕に気がついたみたいに揺れた。
(連れていって、か)
そう言って僕の肩にしがみついた女の子。
僕は思い切って中年の男性に言ってみた。
「すみません、ここの紫陽花って株分けしてもらうことってできないんでしょうか」
彼はじっと僕を見つめて、それから首を傾げた。
「かまいませんが………………どうしてそう思ったか、聞いても?」
それは疑問というよりどこか、何かを確かめるような口調だった。
「あ………っと、何だか、連れていってと言われた気がして」
女の子のことは言えず、しかしそれだけを説明すると。
「そうですか。――――そうなんですね」
彼は納得したように頷いて、それから笑った。
「大切にしてやってください」
「………はい」
僕も笑い返して、それから彼が「そこにあるスコップを使ってくれていいですよ」と言ってくれたので、ありがたく借りた。
建物を壊している人達の邪魔にならないように注意しながら庭に入り、僕はその小さな紫陽花のもとへといった。
そしてそっとその根元へスコップを差し入れて、掘り起こす。
「ウチの庭はこんなに立派じゃないよ」
スコップを動かしながら僕は紫陽花に話しかけた。
小さな紫陽花は、それがどうかしたの? と言いたげだ。
僕は着ていた上着を脱いで濡らすと、掘り起こした紫陽花の根を優しく包んだ。
「それに僕は不精だから、あんまり世話もしてあげられないかも」
そこで僕は小さな紫陽花を見つめて聞いた。
「それでも、いいかい?」
時が止まったような一瞬。
僕らに風が吹いて、紫陽花がこくりと揺れた。
「じゃあ、おいで」
僕は微笑んで紫陽花を抱き上げる。
ぱりっとしたみずみずしい紫陽花が、まるで小さな腕をまわすみたいにそっと僕の肩に寄り添った。
万屋弥上貸付帖 丘月文 @okatuki
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