導きの鐘



 毎日毎日が同じことの繰り返し。そんなことが当たり前で。

 でも、本当はそうじゃなかったの。



 一人暮らしのOLって孤独だ。

 朝から疲れた顔で亜沙子はバスに揺られていた。実家に帰ったのはいつだったか。思い出すのに時間がかかるくらい前なのは確かだ。

 ただ毎日が慌ただしく過ぎて、でも何があるわけでもなくって。

(彼氏でもいたら、違うのかなぁ)

 なんて、亜沙子はつい思ってしまう。

 そうしたら、この何だがよく分からないぽっかりとした気持ちも、ちょっとはマシになるのかもしれないって。

(でもその発想自体が虚しい…………)

 思わず溜息がこぼれて、亜沙子の身体がかくりと揺れる。それと一緒につり革を握る右手がぎゅうと痛んだ。

 バスは満員というほどでもないけれど、座れるほどでもない混み様で、いつも亜沙子は立つことになる。

(なーんか、疲れちゃったな)

 停滞感が身体をどんどん重くして。疲れて、だるくて、でもどうすることもできない。

 だいたい、自分は万事がそんな調子なのだ、と亜沙子はまたため息を吐きたくなる。

 短大をそれとなく卒業して、これまたそれとなく就職した会社で、書類をまとめたりお茶くみしたりしている間に二十五歳になってしまった。

 もちろん友達と遊びもするし、彼氏がいた時期もあったけれど、今は何故かだらだらと何もできない日々。

 そんな毎日に。

(会社、やめちゃおーかな)

 なんて、心の中だけで言ってみる。

 そんなこと、できるはずがないことを亜沙子は知っている。

 目の前の『降ります』のランプがピンポーンという音と共に点灯して、それを合図に人の流れができ、亜沙子もそれに加わった。結局、こうなるのだ。

 今日もまたバスを降り、この道をまっすぐ会社まで歩いて、仕事をして、またこの道をもどってくる。その繰り返し。

 それが変わらない毎日。だと、思っていたけれど。

(あ―――開いてる)

 今日は、ちょっとした変化があった。いや、むしろそれは亜沙子の変化なのか。

 以前の亜沙子なら、出勤途中の道路脇にある古い建物のガラス戸が開いていることなど、きっと気にも留めなかったに違いない。

(誰かいるのかなぁ)

 思わず戸をくぐって中を覗きたくなるが、それはぐっと堪えた。

 どうしてこんなに気になるのか亜沙子自身も不思議なほどだが、気になるものは気になるのでしょうがない。

(帰りも開いていたら、入ってみよう)

 そう言い聞かせて亜沙子はガラス戸の前を通り過ぎた。

 ちらりと目をやると、開けられたガラス戸の奥には、古びた箪笥や棚、そして奥へと続く薄暗い土間が見えていた。



 その〝お店〟に亜沙子が気付いたのは数日前のことだった。

 一人の女の人が何かの包みを大事そうに抱えながらその建物の前に立っていた。看板も、表札すらないその古い建物を、亜沙子は取り立て今まで気にしたことはなかったけれど。

 信号を待ちながら何だか不思議な気持ちでそれを見ていると、一人の男がガラス戸を開けて、彼女を招き入れたのだ。

「ああ、ハイハイ、ここが万屋弥上ですよ。お話は承っております」

 漏れ聞こえたその〝万屋弥上〟という言葉が、妙に亜沙子の心を惹きつけた。

 それから注意して見てみると、そこは一見すれば古い民家のようだが、しかしガラス戸の向こうには骨董品のようなものが陳列してあること、土間の向こうにある座敷には書見台があり、帳簿や算盤が置いてあること、要するにそこはどうやら何かの商売をしているらしいことが分かった。

 もっと中をよく見たいと思うのだが、しかしいつ見てもその店のガラス戸はぴたりと閉じられたままだった。

 ―――――今朝を除いては。

(帰る時まで開いてるといいけど)

 そわそわしながら仕事を終えた帰り道。やはり、今日はどうもいつもと違った一日だったらしい。

(開いてる)

 まるでいつもそうであったかのように、ガラス戸はきっちりと端により、四角い穴みたいな入り口がぽっかりと開いていた。

 戸の珊から向こうは薄暗くてなんだか怖いような気もしたが、好奇心も手伝って亜沙子はそろりと店の中に足を踏み入れた。

(ちょっと見るだけ。怒られたら謝って逃げちゃえばいいんだし)

 店の中は思ったより広く、木造の棚が図書館のように何層か重なり、そこに大小の木箱が並べられている。

 掃除が行き届いているのだろう、古い感じではあったが埃っぽさはなかった。

(でも、ほんと何のお店なんだろ? 骨董店かな?)

 背伸びして棚を眺めていると。

「――――――いらっしゃいませ」

 いきなり声をかけられて亜沙子は飛び上がりそうになった。

 慌てて声がした方を見れば、奥にある座敷に一人の男の子がいた。

 前に見かけた男の人ではない。優しげな子で歳は高校生ぐらいだろうか。髪は少し長めの黒髪で、中世的な顔をしている。

 その彼が亜沙子に声をかけたのだ。

 よく考えればここは何かのお店なのだし、店員がいても少しも不思議ではない。というか、気がつかなかったほうがどうかしてる。

 悲鳴を上げそうになった亜沙子は恥ずかしくて言葉が出なかった。

 そんな亜沙子に男の子はちょっと迷ったようだったが、もう一度声をかけてきた。

「何かお探しですか?」

 微笑むその顔は不思議と愛嬌があって、亜沙子の気持ちを軽くした。

 男の子はTシャツに学生服のズボン―近隣高校のものだ―といったラフな格好で、店員というよりはここの店の子なのかもしれない。

「ええと、そうじゃないんだけど………ちょっとここ、気になってて。ここって骨董店か何かなの?」

 男の子の気安い態度につられて、思わず亜沙子はそう聞いていた。そんな亜沙子に男の子は気軽な空気をそのままにして首を振った。

「確かに古いものは多いんですけどね。でも、違いますよ。ここは〝万屋〟です」

「よろずや? あ、そういえばそう聞こえたかも」

 けれど、どういう店かいまいちピンときていないような亜沙子に、彼は律儀に説明してくれた。

「簡単に言ったら、道具のレンタルショップです」

「道具って…………何の? 特殊なもの?」

「特殊っていえば、特殊ですけど」

 次々と質問されても苦笑いだけ浮かべて答える男の子に、亜沙子は思わず素直に首を傾げてしまった。

「それって、儲かるの? って――――ごめんね」

 あまりに話しやすい空気を持つ子だから、つい本音が出てしまったのだ。しかし気にする素振りもなく、男の子はそんな亜沙子の疑問にも答えてくれた。

「儲からないですよ。はっきり言って。でも、必要な時もあるんで」

 そして何か含みがあるように亜沙子を見上げ、彼はちょっと考えてから手招きをした。

「何?」

 亜沙子が近づくと彼はそっと声を落として「不思議なハナシって信じます?」と聞いた。

「なぁに、それ」

 思わず笑ってしまった亜沙子に、しかし彼は真剣に言う。

「たとえば呪いとか、祟りとか――――幽霊とか」

 そのあまりの真剣さについ引き込まれてしまう。

「ええっとぉ、私はあんまり宗教とかは熱心じゃあないんだけど」

「そういうことじゃないんです。分かってるんでしょう?」

 亜沙子を覗き込んでくる、深い緑色に見える瞳に思わずドキリとした。

「この店はそういうものの為にあるんです」

 男の子の声が優しく響く。

「じゃあ、ここはオカルトなお店ってことかな?」

 何だか不思議な気分で亜沙子はそう言っていた。まるで彼の言ったことを信じたみたいな。

「まあ、そうなります。―――信じます?」

 くすりと笑う彼に、亜沙子はちょっとだけ怒ったように言ってやる。

「大人をからかうものじゃないわ」

「すみません、からかうつもりじゃなかったんです。ただ――――ちょっと気になったんで」

 すると今度は男の子の顔が真剣なものになったので、逆に亜沙子はどぎまぎしてしまう。

「やだ、本当にからかってるでしょ。それとも私、そんなに魅力的?」

 そこで彼は一瞬きょとんとし、それから吹きだすように笑った。

「ちょっと! 失礼よ!」

「や、すみません、ほんと、スンマセン」

 しかし謝りながらも、男の子の笑いは止まらないようだ。

「ほんっと、失礼。何もそこまで笑わなくていいじゃない!」

 恥ずかしいやら怒れるやらで、もう彼の顔がまともに見れない。きっと見事に赤面しているだろうから。

 そんな亜沙子に男の子は笑いをやっと止めて、言い訳をするように話し出した。

「いや、気になったっていうのは、ホラ、こういう変わったお店だからこっちもつい勘ぐるっていうか――――縁みたいなもんがあるんですよ、ここにくるお客は」

 そして土間に下り立ち、亜沙子の隣を通り過ぎて棚に向かう。

「不思議なものとか、通常では考えられない現象とか、そうした縁の先にあるような店なんです、ここって」

 と、そこで男の子が亜沙子に向き直って尋ねた。

「だから、何かに困ってここにきたんじゃないか、と」

 緑色の目がすべてを見透かすように亜沙子を見ていた。

 亜沙子は少しだけ戸惑い、けれど首を振った。

「あいにく――――私は違うみたいよ?」

 そう答える亜沙子に、彼はどこか困ったような、けれど優しい顔をした。

「本当に?」

 深い深い緑色の奥に映っている亜沙子。

 ―――――ミタラダメ。

(えっ?)

 思わずよぎった感情に亜沙子は動揺した。感じたそれは、紛れもない恐怖だった。

(何で?)

 目の前の男の子はむしろ穏やかで、恐怖とは無縁そうに見えるのに。

「まあ、用がないならそれにこしたことはないですよ、こんな店」

 にっこりと、自分がいる店だというのに彼はそんなことを言う。

「そうなの?」

「そりゃあ…………そうだと思いますよ。人間、何事も普通が一番」

 何だか常にそうでないと言いたげな男の子の疲れた顔に、思わず亜沙子は笑ってしまった。

「年寄り臭いわね、君って。こんなトコで働いてるから?」

「………ですかね」

 今度はため息まで吐いた。歳のわりに苦労していそうな子だ。

 そんな彼に笑顔を向けつつ、亜沙子は励ますように言った。

「でも、毎日毎日同じことの繰り返しってのも疲れるもんよ? なーんにもない日が、ずっと、ずぅーっと続くの。まさに、退屈の一言よ」

「それは………辛いかもしれませんね」

 そう言う彼はどこか悲しそうで、でもどうしてだか亜沙子は上手く彼の顔を見ることができなかった。

 だって―――――コワクテ。

(どうして?)

 なんだか最近どうにもならない感情が増えた気がする。理由の分からない、このキモチ。

「でもある人曰く、ひとは誰しも道を歩いているんだそうですよ。皆いるべき場所に行くための道を進んでいるんだそうです。

 だから貴方にも、あるんじゃないんですか? いくべき場所が」

 そう語る瞳がこんなに怖いだなんて。

 亜沙子を軽い頭痛が襲った。

「でも―――――分からないのよ」

 いつの間にか亜沙子はいつもの不安を口にしていた。

「自分がどうしたいか。どうなりたいか。分からない――――うぅん」

 言いながら、亜沙子はもう気付いていた。

 毎日が同じことの繰り返し。それに飽き飽きしながら、それでも動けずにいたのは――――――。

「分かるのが、怖いのよ」

 きっと、そう。亜沙子自身が、自分を縛っている。それも、分かっているのに。

 ますますひどくなる頭痛に、亜沙子は泣きそうになる。

 そんな亜沙子を見て、男の子は。

「さっきの話の続き――――この家の商売のことなんですけど」

 と、棚から小箱を取り出して、開けて見せてくれた。

「これ、山道をいく修験者の方にお貸しするものなんですよ」

 桐の箱の中には紫の布にくるまれて、小さなハンドベルのようなものが納められていた。

「銅でできた鐘です。ほら、托鉢のお坊さんとかがチリーンって鳴らすやつ」

 そう言って彼はそれをりぃん、と鳴らしてみせた。その音は確かに頭に響く清廉な響きがあった。

「鐘の音には邪気を祓う力があるんです。あと、迷える者を導く力も」

 そう言って彼は亜沙子の前でそれを振るわせた。

 りぃ――――ん

 脳内に直接響くような振動。

 りぃ――――ん

 その音が思考の霧を払う。

 りぃ――――ん

 どこか祈りに似た響きが胸にしみて。

「え…………あれ? 何で?」

 亜沙子の目から涙がこぼれ落ちていた。

 ああ、それほどまでに亜沙子の心はいっぱいいっぱいだったのだと、改めて気付いた。

「大丈夫。行けますよ」

 微笑んで男の子がそう言ってくれる。

 疲れていた心が、すっと軽くなるようだった。

「そう、かな」

「はい。きっと」

 気がつくと、あの頭痛は消えていた。

「ごめんね、泣いたりなんかしちゃって」

 気恥ずかしくてそういうと、彼は困ったように言った。

「こういうとき、どう慰めたらいいのか分からないんです。ハンカチとか、渡した方が良いんですか?」

「ほんと、幾つよ、君」

 本音を言えば慰められたかったが、年下の男の子に甘えるには抵抗があったから、亜沙子は乱暴に手で涙を払って笑ってみせた。

「そうね。私の行くべき場所ってもんが、あるのかもしれないわよね」

 同じように思える毎日でも、行くべき場所があるなら。前に進めるはず。

 そう思うと元気が出てきた。あながち、おまじないも馬鹿にできないのかもしれない。

「何か、すっきりした。ありがと」

「それはよかった」

 心からの言葉にそう言ってもらえて、亜沙子は何だか身体が軽くなった気さえした。

 どこまでだって行けそうな。どんなことだって頑張れるような。そんな気がする。―――――今なら。

 亜沙子は顔を上げて微笑んだ。

「ごめんね、長居しちゃって。もう行くわね」

 男の子も笑って言った。

「ええ。頑張って」

 その励ましが嬉しかったけれど、照れくさくもあって。

「じゃあね」

 背を向けたまま男の子に手を振った。

 まるで後ろからぽんと押されたみたいに店の敷居をまたいで、いつものバスを待つ通りへと出る。

 ああ、もう今日は昨日と同じじゃない。足取りも軽く歩く亜沙子は、点滅する信号機で足を止めた。

 ―――――アノヒモソウダッタ。

 ふと、そんなことを思って、亜沙子ははてと首を傾げる。あの日、とはいつだったっけ。

 こんな風に赤信号につかまった、あの日。いつもと同じようにくたびれた帰り道だったはず。

 でも―――――チガウ。アノヒハ、オナジジャアナカッタ。

 あの時、甲高い車のスリップ音を亜沙子は聞いた。でもそちらに顔を向けるよりも早く、どんっという衝撃が亜沙子を襲って―――――。

(あ―――――そっか)

 気が付いた瞬間、亜沙子は思わずふっと気が抜けてしまった。

(なぁんだ)

 向かいのビルのガラス窓には歩道と信号機が映っている。しかし、そこに亜沙子の姿はない。

 それはつまり―――――。

(私…………死んだんだっけ)

 あんなに恐れていたというのに、気が付いてみれば、それはなんてあっけなく。

(なぁんだ)

 いっそ清々しいくらいで、亜沙子はくすくすと笑い出してしまった。

 何もかもがすっきりと楽になってしまって、笑いが止まらない。

「あーもー、おっかしいの。気付かずに毎日仕事に行ってたなんて!」

 まさか自分がこんなに勤勉な精神を持っていたとは。

「まったく、無駄なことしちゃったわ。こんなことなら、早くにやめたらよかった」

 軽くなった身体を亜沙子はぐいと伸ばす。凝り固まっていたものがほぐされて、なんとも気持ちが良い。

 そこで亜沙子が思い出したのは、あの万屋の男の子の目だった。見透かすようなあの深い緑色の瞳は、きっと何もかもを映していたに違いない。

 その上で優しくしてくれていたのだと、今分かった。

(だったら…………行かなきゃね)

 彼が言っていた通り、行くべき場所へ。

 今こそ行かなくては。

「ありがとね」

 その言葉は彼に届くはず。

 亜沙子は微笑んで、そっと目を閉じた。 








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