空蝉は胡蝶に憧憬を抱くか?

成田葵

空蝉は胡蝶に憧憬を抱くか?

 ほんの三日前までやかましかった蝉時雨も、止んでしまった今となっては名残惜しく感じられた。


 蝉が鳴かなくなったら秋なのだと、そう教えてくれたのは彼女だったかと貴幸たかゆきは思い出す。今から会いに行く彼女は、もっとも夏の暑さなんて殆ど知らなかったのだろうが。


 蝉の声は聞こえなくとも、いまだ日差しは強く夏を感じさせる。右手に持っていた水桶を一度置いて、貴幸は額の汗を腕で拭った。


 石造りの階段は長く続く。今時こんな場所へまめに足を運ぶのは、殆ど老人ばかりだ。和尚はしばしば「この階段もすべてスロープにできればいいんですけどねえ……」なんて言っていたが、それは当分叶わないだろう。


 いよいよ目的の墓石に到着したとき、貴幸の額はびっしょりと濡れていて、その玉のような汗はこめかみから顎にかけて滴り落ちるほどだった。


 「篠原家」と書かれた墓石を前に、貴幸は左手に持った仏花の花束をそっと石畳に置く。背負ってきたリュックから、タオルとビニールに入れたスポンジを取り出した。タオルは首に巻き、水桶に入った水を柄杓でかけながら墓石を磨いた。


 平日の墓地は恐ろしく静かだ。かすかに虫の音が聞こえるが、何の虫かは怪しい。じっとりとまとわりつく汗の不快さを煩わしく感じながらも、貴幸は一心に墓石を磨く。幾度か水をかけても熱を持ったままの御影石は、確かに今はまだ夏なのだと物語っていた。


 一通り墓を掃除し、仏花を活けたところで貴幸はようやくタオルで汗を拭った。着てきたシャツが、汗に濡れて背中に張り付く。線香に火を付け、線香立てに入れて、貴幸は手を合わせた。


 さらさらと風が吹く。静かな空間に、陽光は豊かに降り注ぐ。小さく聞こえるのは、風に梢が揺れる音だけ。いつの間にか虫の音も消えていた。


「……もう、ここで会うのも二度目だね。今日は報告があって来た。この間、行く大学が決まったんだ。指定校推薦。俺、勉強苦手だったけどあれからかなり頑張ったんだ」


 合わせていた手を下ろし、貴幸は墓石に語りかける。


「とは言っても、他に希望者もいなかったみたいだから、思ったよりすんなり決まったよ。……だけど」


 そっと手を伸ばし、貴幸は墓石を撫でる。細めた瞳は優しく潤んでいた。


「本当は、お前と大学生になれたらよかったって思っているよ……菖蒲あやめ


 大学生になるのは彼女……菖蒲の夢だった。



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「木田くんは、大学に行ったら何を勉強するの?」

「……大学?」


 木田とは貴幸の姓である。ある晩夏の日、病室で貴幸は菖蒲とともに折り紙で蝶を折っていた。菖蒲はよく蝶を折る。千羽鶴の代わりなのだと、彼女は言っていた。


 貴幸が菖蒲と出会ったのは、その二か月ほど前だった。下校の途中で車に撥ねられて脚の骨を酷く折った貴幸は病院に運ばれ、全治十か月を言い渡された


 その後手術をして、経過を見て一週間後からリハビリを開始した貴幸に、声をかけてきたのが菖蒲だった。


 菖蒲は貴幸と同じ高校二年生だった。幼いころから心臓に病を抱えており、しばしば入院をしているらしかった。調子がいいときは入院中でも院内を歩き回ることが許されており、たまたま同世代の男子がいたから声をかけたという。


「友だちはもうあまり来てくれないの。何度も入院しているうちに、みんな飽きちゃったみたい」


 だから、同じくらいの歳の子を見ると、ついつい声をかけちゃうの。と菖蒲は切なげに笑っていた。


「木田くん、もう少しで退院でしょ? そしたらまた学校に行けるじゃん。もう高校生だし大学のこととか考えない?」


 菖蒲は通信制の高校に通っていた。病室の机によく参考書が置いてあったのを、今でも貴幸は覚えている。


「俺は勉強嫌いだから大学はいかないと思う」

「え、そうなの」

「事故の前のテストなんて、数Ⅱは40点だった」

「赤点ギリギリじゃん」


 菖蒲は努めて明るく笑っているようだった。でもその日のようにベッドから出られない日は、彼女の体調が特別悪い日なのだということを貴幸は知っていた。そして、その頃はそんな日が、少しずつ増え始めていたことも。


「二年生でそんなんじゃ不安だね」

「うるせえよ。だから俺は大学なんて行かない」

「私は学校の先生になりたいんだ。だから大学は絶対に行きたい」

「……なんか意外だな」

「そう? 看護師とかだと思った?」


 正直そう思ったが、あまりに安易な発想だったと気付いた貴幸は「別に」としか返せなかった。察しのいい菖蒲は、そんな貴幸を見てクスクスと笑っていた。


「でも木田くんも大学は行った方がいいよ。いろいろ将来の選択肢増えるし」

「そもそも行けるアタマがないんだって」

「そんなの大丈夫。なんだってできるよ。木田くんは、脚さえ治ればいいんだから」


 菖蒲の含みのある言葉に、貴幸は折りかけの蝶から目を離して顔を上げた。弱々しく微笑む菖蒲の長い黒髪は、窓から差す夏の日差しをきらきらと反射していた。


「……蝉の声が最近は聞こえないね」

「え? ……あ、そうだね……」


 いつの間に話題が変わっていたことに気付かず、貴幸は言い淀んでしまった。しかしそんな彼の様子を気にかけることなく、菖蒲は窓の外を見つめたまま話し続ける。


「蝉が鳴かなくなったら、夏が終わるの」

「ん?」


「私、外でなんてまったく遊ばないし、部屋にいることの方が多いから。季節ってあまりよくわからなくて。音とかで感じるようにしてるんだけど。夏はね、蝉が鳴き終わると一緒に終わるの」


 菖蒲は窓の外を見つめたままだ。瞳に映るのは白い太陽と深緑の桜の葉。眩しいばかりの夏の景色だ。


「……俺も最近は外に出てないからあれだけど、結構この時期ってまだ暑いよ」

「え? そうなの?」

「うん。まだまだ夏」

「えー、そうなんだ。知りたかったような、知りたくなかったような」


 菖蒲はころころと笑い、蝶を黙々と折り始めた。貴幸も彼女に倣い、折り紙に集中する。


「……できた! 五二四羽目!」

「はい、これも。五二五羽目」

「ありがとう! 木田くんも手伝ってくれて」


 菖蒲は貴幸から蝶を受け取ると、ベッドの枕元にぶら下げている連ねた蝶の束に、自分が折ったものとともに結い付けた。


「あと四七五羽だ」

「篠原はどうして千羽鶴じゃなくて蝶を折るの?」


 貴幸はしばしばこの「千羽蝶」作りを手伝っていたが、なぜ蝶なのかと聞いたのはこれが初めてだった。


「うーん……。なんとなく、蝶の方が自由な気がするから?」

「なんだよそれ」

「それに、千羽鶴って病気が治ったり良くなったりするように折るものでしょ。私のはちょっと違うかも」

「病気が治るように、じゃないのか?」


 想定外の返答に貴幸は戸惑いを覚えた。


「それもあるけど、それだけじゃないというか。内緒だけど」

「ふーん。そっか」

「木田くん、退院は来週あたり?」

「先生からはそう言われてる」

「そっかあ……うん。よかったね」


 菖蒲は心底嬉しそうに笑って見せた。


「ひとりであと四七〇羽以上も折らなきゃいけなくなるのか……。気が遠くなりそうだ」

「……たまに、手伝いに来るよ」

「ほんとう? ほんとうに来てくれる?」


 菖蒲はベッドから身を乗り出して貴幸に尋ねてきた。突然近づいてきた彼女の顔の美しさに、貴幸は咄嗟に目をそらした。


「う、うん、来るよ。俺も、その、……蝶を折るのに、ハマったから」

「なにそれ~。木田くん変」

「うるさいな。来なくてもいいのかよ」

「うそうそ! 来てほしい!」


 菖蒲は貴幸の両手を掴むと、自分の手で包み込んだ。その手の冷たさと柔らかさに、貴幸は自分の頬が熱くなるのを感じた。


「約束ね! 退院しても、たまにでいいから会いに来て!」

「やくそく、する」


 しどろもどろに返す貴幸に、菖蒲は太陽のように笑った。



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 貴幸は退院後も、しばしば菖蒲の病室を訪れ、ともに蝶を折り続けた。


 菖蒲は貴幸の学校の話を聞きたがった。授業の話。先生の話。学食の話。部活の話……。どんな些細な話でも、菖蒲は目を輝かせて聞いていた。


 しかし、次第に菖蒲はベッドから出られない日が増えていき、貴幸が訪ねても臥せったままである日さえあった。貴幸にとって、彼女の元気が次第になくなっていく様子をただただ見つめていることは、苦痛でしかなかった。


 だからと言って、なぜ病院に行く頻度を減らしたのか。今では悔いても悔い切れない。遅れていた勉強を取り戻したかったから。退院して入った演劇部の大道具作りが佳境だったから。特に菖蒲から連絡もないから。……言い訳をいくつも作り上げながら、貴幸は病院から足を遠のかせた。


 そして約ひと月振りに病院を訪れた貴幸に告げられたのは、彼女が亡くなったという事実だった。あっけない。あまりにあっけなかった。


 本人たちたっての希望と言うことで、貴幸はその後菖蒲の両親に会った。病院側に「木田貴幸という人物が来たら教えてほしい」と伝えていたらしい。


「娘は……あれが最後の入院になることをおそらくわかっていました。もう、永くはないだろうと言われていたのです。本人には伝えませんでしたが、聡い子でしたので……きっと気付いていたんだと思います」


 菖蒲の父親は噛み締めるように告げた。母親は隣でハンカチを握りしめながら涙を流していた。


「そんなあの子が、よく私たちに話してくれたんです。『木田くんがね』『木田くんがね』って……。あなたは、娘の希望だったんだと思います」


 本当に、ありがとう。深く頭を下げる菖蒲の両親を前に、貴幸は呆然とするしかなかった。


 その後納骨を終えた墓を訪れたのが、菖蒲とのようやくの再会だった。すでに枯れたと思っていた涙が、墓を前にしてまた途方もなく溢れてくるのが不思議だった。


 そして、その後だった。仏教で蝶は死人の魂を天上に運ぶと言われていることを、貴幸が初めて知ったのは。



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「お前、初めから死ぬ気だったんじゃないか。蝶なんて折って」


 気付けば線香は殆ど燃え尽きようとしていた。貴幸はそれだけ長い時間を菖蒲と話していたことにようやく気付く。


「……もうこんな時間か。また命日の頃来るよ」


 少し傾いてきたとはいえ、日差しはまだまだ強かった。首にかけたタオルで改めて汗を拭いて、貴幸は水桶を持ち上げる。


「またな」


 そうして歩き出そうとした貴幸のもとに、ひらひらと飛んできた虫がいた。


「……烏揚羽カラスアゲハ?」


 いくらまだ暑いにしても、あまりに季節外れだった。烏揚羽はゆらゆらと貴幸の周りを飛び回っている。陽光を浴びて輝く鱗粉の美しさが、あの日病室で見た菖蒲の黒髪のきらめきと重なった。


「……俺が言うのもなんだけどさ!」


 馬鹿げている。どこかでそう思いながら、貴幸は烏揚羽に語り掛けた。


「俺もお前もさ! 今度は言えるといいよな! 『さみしかった』って!」


 悔いても悔い切れない。自分の思いを、気持ちを、誠実に伝えなかったことが。きっと彼女も、どこかでそう思っている気がした。


「また会えたら、俺も今度はちゃんと伝えるから!」


 烏揚羽を見上げた頬から、一筋の涙が伝い落ちる。首に感じた涙の雫に、ようやく貴幸は自分が泣いていることに気付いた。


 烏揚羽は相変わらず貴幸の周りを飛び回っていたが、彼が最後の言葉を告げてから、唐突に貴幸の顔の前に飛び出して来た。驚いた貴幸は思わず身を屈める。


 そんな彼の様子を揶揄うように、蝶は貴幸の上空を一周飛び回ると、どこかへ飛び去っていた。


 後に残るは、夏の末の快晴の空。烏揚羽の飛び立っていった青空をしばらく眺め、貴幸は階段を下り始めた。

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