春になったら
コトノハーモニー
春になったら
「はい」
差し出された切符を思わず受け取って、夏帆は慌てて顔をあげた。視線の先では、切符を手渡した少年がすでに改札をこえていた。
「あ、阿部くん?」
戸惑う夏帆に構わず歩みを進める阿部と、手の中の切符を見比べる。その間にも、学ラン姿は人の波にのまれて進んでいく。
(ええい!)
阿部を見失う前に、夏帆はその後ろ姿を追いかけた。
階段をのぼってホームに出ると、射すような陽の光に夏帆は目を細めた。アナウンスが流れるホームは、残り少なくなった夏休みを満喫する人であふれている。その中に阿部の姿を見つけて、夏帆は人をかきわけて近づいていった。
長かった夏休みも一週間もすれば終わる。とはいえ、中学三年生である夏帆たちにとって、夏休みなどあってないようなものだ。夏期講習もいよいよ大詰めで、今日もこれから塾へと自習に行くはずだったのだ。
塾へ行くならホームが違う。夏帆が声をかけようとしたとき、生温い空気を巻き上げて電車がホームに入ってきた。電車が起こす風が夏帆のセーラー服を揺らす。
ドアが開き、たくさんの人が吐き出された。それから電車に乗りこむ人々に続こうとしていた阿部の鞄を夏帆がつかんだ。
「どこ行くの?」
「どこって、海に行きたいって言っただろ。ほら」
鞄をつかんでいた手首を逆につかまれて、電車に引きこまれた。戸惑う夏帆の背中で、ドアが閉まる音がした。
ガタゴトと揺れながら電車が走りだす。手首はすぐに解放されたが、握られていた場所がまだ熱をもっているように感じて、そっとさすった。阿部の方をうかがってみると、ドアに背を預けて目を閉じていた。
阿部啓介。夏帆と同じ個人塾に通っている。多くの生徒は駅前の大手の有名塾に通っていて、阿部は唯一同じ中学校の生徒だった。だから夏帆にとって、阿部は特に交流のある男子生徒だ。
今日は夏休みの登校日で、昇降口でたまたま会って一緒に塾まで行くことになったのだった。
(それが、どうしてこんなことに……)
駅までの道のりの当たり障りのない会話を思い出す。確かに今年は海に行っていないという話をした。その時に、行きたかったなあ、とももらしたかもしれない。しかしそれが、どうしたら二人で海に行くという結論になるのか。
夏帆がひとり悶々と考えている横、一人分のスペースを空けて立つ阿部は涼しい顔をしている。そんな彼を横目で見てから、夏帆は小さく息をついた。
電車が駅に停車した。ここで降りて引き返せば、予定通りの時間に塾に着くことができる。だが、夏帆は降りる乗客に視線をやるだけで、結局走りだした電車の中に残った。
(海、海ねぇ。うん、ひとつくらい部活と勉強以外の思い出があってもいいかもね)
マネージャーをしていたバスケ部を引退してからは、毎日塾に通っていた。いい加減、勉強三昧の日々にうんざりしていたのは事実である。
鞄から携帯電話を取りだして時間を確認する。今日の授業は確か夜の七時からだった。まだ昼にも早い時間なので、授業にも問題なく間に合うだろう。どうせ海に行くなら楽しむべきだ。そう結論付けると、夏帆は顔を上げた。
(海までどれくらいかかるんだろう)
窓から流れる景色を見つめる。いくつか駅を過ぎると、夏帆の知らない駅名が車内アナウンスで流れてきた。中学三年生にもなって、なんだか知らない場所を冒険している気分になって、夏帆は小さく笑った。
電車はたくさんの乗客を乗せたり降ろしたりしながら、夏帆の知らない町を進んでいく。窓の外の景色はだんだんと田畑や緑が多くなってきた。
車内ではそこここで会話がもれ聞こえてきたが、夏帆と阿部の間ではそれが当然であるかのように会話はなかった。阿部は相変わらずドアにもたれて目を閉じていたし、夏帆は窓の外を見ていた。
そうしていくつの駅を通り過ぎたかもわからなくなった頃、ようやく阿部が目を開いた。ふり返って窓の外を見る阿部に、夏帆が視線を送る。
「ほら、海だ」
彼が指をさす方を見て、夏帆は小さく息をのんだ。
緑の葉が生い茂るその向こうに、陽の光を反射して輝く海が広がっていた。窓に張り付いて海を見ていると、電車がホームに滑りこんだ。
音を立ててドアが開くと同時に、乗客がいっせいに電車の外へと流れ出る。その勢いにのってホームに降り立った夏帆の腕がぐいと引かれた。びっくりしてふり返った先にいたのは阿部だった。
人の流れをよけて電車のドア付近に立つと、夏帆の腕が離された。降りる客がいなくなると、彼は再び電車に乗りこんだ。
「海に行くんじゃなかったの?」
急いで夏帆が続くと、ドアが閉まって再び電車が走りだす。
「水着なんて持ってないのに、海水浴場に行ってもむなしいだろ」
そう言って阿部はすっかり空いているシートに腰かけた。夏帆も倣って、少し間をあけて窓が見える位置に座った。乗客がぽつぽつと座っているだけの車内は、先ほどよりも冷房が効いていた。
それから五つほど駅を越えたとき、阿部が「次だ」と立ち上がった。
電車を降りると、潮気を含んだむっとした空気が全身を包んだ。いっそ暴力的な日光に、夏帆は手をかざしてホームを見回した。二人が降り立ったのはずいぶんと寂れた駅で、他に誰の姿もなかった。小高い場所にある駅からは海を臨むことができた。
「ほんとに海だ……」
「そりゃ、海に来たし」
「そうだけど」
慣れたように改札をくぐって駅を出る阿部に夏帆も続く。駅の反対側は山になっていて、蝉の声が降ってくるように響いている。少し歩くと、小さな駄菓子屋が見えた。店先に〈氷〉ののぼりがぶら下がっている。
(ほんとに知らないとこまで来ちゃったんだなぁ)
そんなことを考えながら歩いていると、ふととあることに思い至って立ち止まった。数歩先で阿部が不思議そうに振りかえった。
「どうかした?」
「切符、帰りはわたしが二人分買うからね」
「べつに気にしなくていいけど」
言いながら阿部が止めていた足を動かした。
「そういうわけにはいかないでしょ」
慌てて阿部を追いかけようとした夏帆の視線の先で、阿部が再び立ち止まった。
「じゃあ、あれ買って」
阿部が指さす先を目で追いかける。その先にあったのは、冷蔵庫の中で冷やされたラムネだった。
がさごそとビニール袋を鳴らしながら、二人は駄菓子屋を後にした。昼がまだだったので、いっしょに菓子パンも買った。
「これでもまだ安い気がする……」
「もういいから。これ、はい」
呆れたように阿部がラムネを差しだしてくる。受け取ったラムネ瓶はキンキンに冷えていた。小気味よい音を立ててラムネをあける。一口飲んで阿部が「生き返る」ともらした。夏帆も口をつけた。
「ラムネとか久しぶりに飲んだなあ」
瓶の中のビー玉が涼しげな音をたてた。
海までの道のりを肩を並べて歩いていく。引退した部活のことや塾のこと。志望校が同じことなど、電車の中での沈黙が嘘のように会話が尽きることはなかった。そうしているうちに、小さな入り江の入口にたどりついた。
「海!」
両手をあげて叫ぶ夏帆を気にせず、阿部は堤防に腰かけた。先ほど買った菓子パンを取りだす姿をなんとなく見つめる。と、視線に気づいた阿部が、横をぽんぽんと叩いた。頷いて堤防にあがって、置いてあるビニール袋を挟んで座った。メロンパンを取りだして口に含む。
穏やかな海風が紺色のスカートを揺らしていく。水平線から湧き上がる入道雲。輝く水面を見ながら、来てよかったな、と夏帆は思った。
「そういえば」
海に見入っていると、阿部が口を開いた。
「渡辺は高校でもバスケ部のマネージャーやるの?」
「どうしようかなぁ。バスケも好きだけど、野球部もいいなって思ってる」
「野球部?」
不思議そうに阿部が瞬いた。
「そう。高校野球に甲子園ってやっぱりこう青春! って感じがするでしょ。甲子園につれてってーみたいな」
「そんなもんか」
そうそう、と夏帆が笑って答えた。
最後の一口を頬張って、少しぬるくなったラムネで流しこむ。それからおもむろに、ローファーと靴下を脱ぎ始めた。
「何してんの?」
「何って……ここまで来て海に入らないとか、意味がわからない!」
呆気にとられる阿部に、なんだか笑い出したい気持ちになって夏帆が答えた。砂浜を一直線に海へと駆ける。
スカートを持ち上げて走った勢いのまま、海の中に入った。打ち寄せる波が足元の砂をさらっていく。ふくらはぎの下まである海水は、思ったよりも冷たかった。
ばしゃばしゃと音が聞こえたかと思うと、ズボンをまくり上げた阿部がやってきた。
「意外と冷たいな」
「だね。ああ、でもせっかくなら泳ぎたかったなぁ」
夏帆は拗ねたように海水を蹴りあげた。水滴が陽の光に反射してきらきらと散っていく。阿部が苦笑する声が聞こえた。
「来年はちゃんと海水浴に行けばいいだろ」
「そうだけど」
「ああ、部活が忙しいか」
そう言われて、夏帆は反射的にバスケ部のスケジュールを思い返していた。無意識にバスケ部を軸に考えるのは、もはや癖のようなものだ。これは高校もバスケ部だな、と夏帆は小さく笑った。
「バスケ部も、まあ忙しいけど、剣道部はもっと大変なんじゃないの? 阿部君強いでしょ」
確かなにかの大会で優勝してたなぁ、と彼を見ると照れたように頬をかいていた。
「うん、まあ……そう」
珍しく煮え切らない返事だと彼を見ていると、「だからさ、」と意を決したように阿部が口を開いた。
「だから、甲子園は無理だけど、全国大会なら連れていけるから、剣道部のマネージャーやってくれないか?」
「え……?」
「いや、べつに応援に来てくれるだけでもいいんだけど」
言われた言葉の意味がうまく飲みこめずに夏帆は固まった。
(応援くらい行くけど……って、ちがうちがう、なんなのどういう意味?)
ようやく噛み砕いて飲みこんで、余計に混乱した。熱をもってくる顔を見られないように急いで下を向いた。二人の間を波が寄せては引いていく。
「でも、これで高校落ちたら洒落にならないから、返事はいいよ」
あまりに予想外のことを言うので、うっかり顔をあげてしまった。ぽかんと阿部を見る。
「入学式のときにでも、もう一回告白するから、その時に聞かせて」
悪戯が成功した子どもみたいに笑う阿部に、夏帆の顔がまた赤く染まる。それを隠すように、踵を返して浜辺に向かって歩きだした。
「どうかした?」
「か、帰る」
「もう?」
「高校落ちるなんてほんとに洒落にならないから、さっさと塾で自習するの」
「確かにそうだ」
ばしゃばしゃと歩く夏帆の後ろを、阿部の楽しそうな声が追いかける。
赤くなった頬に手をあてる。まだ熱をもつ頬が早く冷めることを祈って、砂浜を駆け出した。
春になったら コトノハーモニー @kotomoni_info
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