コトノハーモニーの遠野と北山です。
今回ははじめての企画に参加して頂きありがとうございます。一体何を言われるのかと身構えてる方もいらっしゃるかもしれませんが、物語を書く端くれとして、書き直すための材料として何が必要だと思うのか、真剣に意見を出し合い、まとめました。
批評『セルカとナイフ』@rokunanarokuさん
https://kakuyomu.jp/works/1177354054918429264肯定的批評
①文章が端的で読みやすい。ダイアローグ中心のため、どうしても「僕は」「僕が」という表現は多いが、ここが見せ場だ、というのがわかりやすい。
②セルカの危うさが描写されることで、そのセルカの自由さに惹かれる主人公というのがわかりやすい。
③作者が伝えたいメッセージが明確である。ややセルカのセリフでストレートすぎるきらいもあるが、この話でこれが伝えたい核だとわかりやすい。
批判的批評
①セルカが金髪である理由(名前からして外国人なのか?それとも染めている?)、可憐な見た目とナイフというギャップの効果以外に狙いがあるのかが読み取れない。セルカの存在感はあるが、もう少し背景が見えた方がいい。
②ナイフを「何かを傷つけることも出来ちゃうけど、何かを守ることも出来るんだ」とセルカは姉の言葉を借りて言うが、セルカ自身はどちらの目的で持っているのか。固執する理由を「ナイフを愛しているだけだ」と主人公が結論づけて果たしていいのだろうか。
③主人公はセルカと出会ってデビューを決めている訳だが、その表題作が「少女とナイフ」というのがいかにも出来すぎているという感じになってしまっている。小説家になりたいと思っていてもなれない、実際に書きたい作品を書き上げられる人は少数だということを考えると、タイトルは決まっている、くらいで留めておいた方がいいと思った。
雑感
・スクランブル交差点と描写から渋谷を思い浮かべるが、二人が走って行った先に潮風と出てきて違和感があった。
・「その通りに進めば、それなりの成功があって、それなりに裕福に暮らせて、それなりの幸せが待っている」とあるが、小説家としてデビュー出来ている主人公は、今の方がそれなりの成功を得ているのではないか。平凡な人生としての表現だとは思うが、それを捨ててでも選んだ事の対比としてもう少し表現を変えてもいいと思う。
・ナイフは自由だと作中で述べているが、その割にナイフの用途は「何かを傷つける」か「何かを守る」の二通りと非常に限定的であり、自由と評するには窮屈に感じられる。果物の皮を剥いたり、何かを切り分けたり、鉛筆を削る等の使い方ができるにも関わらず、自由と評されるナイフの使い方が限定されているのが気になる。
・セルカは剥き身のままナイフを持ち歩いているような印象を受けるが、実際はどうやって持ち歩いているのか気になった。例えばバタフライナイフではダメなのか。作品の根幹にかかわることだが、ナイフを持ち歩くのは銃刀法違反、スクランブル交差点のシーン等でも通報されて騒ぎになったり、不審者としてニュースになると思う。読者を現実に引き戻すような疑問を抱かせないよう、書き直す際はその辺も検討してもらいたい。
批判的批評の①②でも触れているが、もっとセルカについての情報がほしい。「傷つける」ということが「傷をつけて血を流す」ということなら、セルカは例えその対象が自分であっても「傷つける」ためにナイフを持っているように現状では読める。それとも、そういう自傷行為で逆に何かを守っているのか。このあたりを、もっと主人公目線で良いので表現されていると、より読者を引きこむ作品になると思う。
今回は企画に参加頂き、ありがとうございました。
この批評も私たちの意見や主観が入ったものになりますので、もちろん肯定的・批判的共に全てを受け入れる必要はなく、それを望んでいるわけでもありません。どうかご自身のよりよいと思う作品を、これからも作り続けて頂ければ幸いです。
このような機会を頂きありがとうございました。
今後の活躍をお祈りいたします。