後編 アップデート後

 月末のアップデートでデフラグを終えると、カナミは意気揚々と街へ繰り出した。


 自分が選んだもののみで構築された記憶。記憶選びは何千年と生きて行く日常の中で必要不可欠である。

 なにか大切なものを忘れているという曖昧な感覚すらない。機械脳はいつだって有るか無いかの二択だ。これによりコミュニケーションの中で相手との記憶違いが発生することはしばしばある。しかしそうなったとしても、突っ込まないというのが常識である。それは、長きを生きるために全人類が身に付けるべき処世術しょせいじゅつなのだ。

 これからますます科学技術が発展して行けば、何億何兆年と歳を重ねていくかも知れない。地球外での生活も起こり得るだろう。そうなったら、地球で生まれ育ったときの記憶をどれほど残しておけるかもわからない。よほど大事な記憶ならUSBアルバムに移してしまえばいいのだが。


 カナミがシンジュク駅のコンコースを歩いていると、不意に鳩が横切った。白に覆われた、くちばしの青い鳩。鳩が行く先には年老いた痩身そうしんの男が立っていた。こちらを向いてにこりと笑う。


 近寄って来た老人に頭を下げられた。つられてカナミも頭を下げる。


「わしのこと、どうやら覚えとらんようじゃの」


 カナミの記憶には彼の存在はなかった。アップデートの際に忘れてしまったのだろう。それが顔に出ていた。


「ええ。ちょうどデフラグをしたばかりで」

「ふぉっふぉ。なによりじゃ」


 忘れられてしまったというのに、なによりという返事には違和感があった。


「マナー違反ですまんが、老いぼれの世迷言と思って聞いとくれんかの」

「はい」

「わしは記憶屋のスレジと言う。実はおぬしはわしに大切な記憶を預けたのじゃが、今回のアップデートでそれを忘れた」

「え!? それ、ロックの掛け忘れってことですか? だとしたら大変。その記憶、教えて頂けますか?」


 スレジは首を振る。


「いや、それはできん」

「どうして?」

「おぬしが、意図的にロックを掛けなかったからじゃ」


 カナミは首を傾げた。


「私は、どうしてそんなことを?」

「それはの。それがおぬしにとって大切でありながら、前へ踏み出すにはとてつもない足枷あしかせになってしまうものじゃったからじゃ」

「え。じゃあ、スレジさんは本当にただ、私が大切な記憶を忘れたことを伝えるためだけに来たんですか?」


 カナミがキョトンとした顔でスレジを見ると、彼は目のしわを深めて口角を上げた。


「ああ、アップデート前のおぬしとの約束じゃからな」

「そんな約束までしていたんですか。私、おかしな人ですね。それに失礼だわ」


 自分の記憶を他人に預けて、自分はきれいさっぱり忘れているのだから、手に負えない無礼者だ。

 カナミは目を伏せて俯いた。


「いやぁ、そんなことはない。人が覚えといてくれとると思えるから、忘れられることもあるんじゃよ。じゃから、おぬしのように、記憶をなくした事実を教えてほしいという者は少なくない」


 スレジはくるりと向きを変えた。


「長い年月を生きれば、また忘れたくないが忘れたい記憶に遭遇するじゃろう。そのときはわしを頼ると良い。この鳩が目印じゃ」


 肩に乗った鳩を見た。

 白い羽と青いくちばし


「でも、またご厄介になったら、今回みたいにスレジさんのことを忘れてしまいますね」


 肩をすくめてため息を零した。


 スレジは顔をカナミに向けてしわを深くして歯を見せる。


「ふぉっふぉ。おぬしが忘れてもわしが忘れん。安心して忘れよ」

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忘れじのスレジ 詩一 @serch

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