忘れじのスレジ
詩一
前編 アップデート前
忘れないと進めないけれど、忘れたくない記憶と言うものがある。
「それなら、スレジの爺さんを頼ればいいよ」
「スレジ?」
「有名な話でしょ? なんだ知らないの? じゃあ会い方を教えてあげる。まずはねえ……」
シンジュク駅の地下に迷い鳩が居る。全身が真っ白で
カナミは友人の勧め通りに鳩を見つけ出し、あとを追っていた。だんだんと喧騒から遠ざかっていく。声も足音も居なくなっていく。改札の電子音と空調の音、天井の上を走る電車のジョイント音だけになっていく。音の種類が減れば減るほど耳に近く、カナミは自分の呼吸の音を聞くたびに現実から離れていくような錯覚を覚えていた。
鳩が足を止めた。その先には、壁際のパイプ椅子に座って転寝をしているおじいさんが居た。顔はシウマイの淵のようなひだひだが縦にも横にも出来ていた。
カナミが腰を屈めて顔を覗き込もうとしたとき、鳩がバサバサと飛び上がり、おじいさんの肩の上に乗った。彼の
「お客さんかのぉ」
しわがれた声が響く。発した声はとても小さいものだったが、なんの隔たりもなく壁に向かって行き、鈍足で跳ね返って来た。シンジュクのコンコースとは思えないほど白けた空間だった。
「は、はい」
彼女の返事にスレジは
「スレジさん、で、良いんですよね?」
「ああ、そうじゃ」
「なんでも覚えておいてくれる、記憶屋だと教えてもらいました」
「いかにも。なにを覚えといてほしいんじゃ? と言うか、お嬢さんはまだ若いのに、もうメモリーがパンパンなんじゃなあ。青春しておる」
「いえ、月末のアップデートのときに消そうとしている記憶を、覚えておいてほしいんです」
「ふぉっふぉ。おかしいのう。わしに覚えといてほしいのに、忘れたいのか」
「はい。それで、これを」
カナミはポケットからUSBメモリーを取り出した。500PETA《ペタ》と書かれている。
「いや、それは貰えん」
「どうして?」
「わしは機械化してないんじゃよ。じゃから覚えとれる」
「え? そんな。……もしかして体も?」
よぼよぼの痩せこけた体であることは、服越しにもわかった。
「ああ、じゃから直接入れることも出来んし、パソコンも使えんからそんなもの渡されてもどうしようもないんじゃ」
「じゃあ、どうすれば?」
「今ここで、話してごらんなさい。忘れたくて、覚えときたい記憶を」
カナミは肩を強張らせ、太ももの上で握った拳をさらに強く握った。それからスレジの方を向いて、目を逸らした。
「こんなところで……?」
「大丈夫じゃ。人間、体がどんだけ冷たくなっても心は温かいもんでの。みんなここでわしが話を聞くのを知っとるから、ここをこんなにも静かにしてくれとるんじゃ。世間は温かいよ」
カナミは
彼女には恋人がいた。運命の人とも言える恋人。彼には昔妻子が居た。事故で行方不明になり、一年を経て死亡届を出した妻子が。
ある日、その妻子が生きていたことが判明した。喜ばしいことではあったが、状況は複雑だ。法律上死んでいたわけだから、不倫をしていたわけではないのだが、各々の心情にはどうしても背徳感が湧き、それを払拭することが出来ない。妻も状況を知っているので、夫のこともカナミのことも責めはしなかった。彼としても、妻子を亡くして落ち込んでいたときに優しくしてくれた恩がある。それにカナミに対する愛は本物である。だから彼はカナミを選んでくれた。
だが彼が心の中で無理をしているのは透けて見えてしまった。明るい話題を喋っているときも目はどこか遠いところを見ているし、食欲も目に見えて減っていた。妻のことはもちろん、子供のことも気掛かりなのだろう。妻子を捨てた罪悪感に背を向けて笑っていられるほど、
このままでは二人とも幸せにはなれない。だから、カナミは思い切って別れを切り出した。
「そしたら彼は、ホッとした顔をしていたわ。悪い人じゃあないんだけど、なんか、なんか……」
「なんじゃ?」
「その……」
「記憶は余さず覚える。それが、わしの流儀じゃ。言いなさい」
「……ムカついたわ!」
思わず出てしまった大声に、自分で口を押えるカナミ。その頭に、ゆっくりとスレジの掌が降りて、優しくポンポンと叩かれた。
「偉い」
彼は
カナミはつられて笑って、それから大きくため息を漏らした。諦めや
「これで、全部覚えてくれたの?」
「ああ、わしの記憶力は凄いからの。一度覚えたことは忘れん。今までも398人、いや、この前のあの子がおるから、399人? いや、一回どっかでキャンセルが入ったんじゃったかの? あ、違う違う、3人くらいキャンセルが立て続いて、いや、4人だったかのぉ」
「……え? だ、大丈夫ですか?」
「すまんのぉ。最近忘れっぽくてのぉ」
「って、それダメじゃあないですか!」
「ふぉっふぉ。大丈夫じゃよ。人から聞いたことは忘れん。忘れるのはいつだって、自分のことばかりじゃ」
明るく言い放つスレジを、カナミはジト目で見つめた。
「なんじゃ? わしがお爺さんだからって、信用ならんか? それにどうせ覚えたって、すぐ死んでしまうじゃろうって?」
「そこまでは言ってないですよ」
カナミは慌てて掌を胸の前で振った。老齢の人間に死の話はしたくない。まして、体も機械ではないのだから。
「大丈夫じゃ。わしは死なん。テロメア注射をしとるからな。とりあえずあと3000年はもつよ。まあ誰かに殺されれば話は別じゃが」
「そんなに生きるなら、いっそ機械にした方が良くないですか?」
「本当はそうする気じゃったが、脳が機械を拒絶して無理じゃった。かと言って脳を機械化すれば、覚えとけんくなるしの。じゃから機械化は諦めた……ような気がするが、その辺ももう曖昧じゃ。ふぉっふぉ」
記憶屋がこれほど天然の脳にこだわるのは、それだけ人間の脳が優秀だからだ。
人間の瞳の画質は、5億7600万
ただ、どれだけ多くの記憶を貯蔵できても、思い出す能力は低下していく。これが厄介で、ほとんどの人がこれに抗うことが出来ない。体の機械化により無限に近いほど伸びた寿命を持つ人類にとって、老化によるもの忘れは致命的欠陥である。それゆえ、国主導で脳の機械化をスタンダードにするための働きかけが始まったのは必然的だった。
キャパシティを増やす試みはすぐに限界が来た。そこで、1ヵ月ごとにアップデートをして、記憶のデフラグを行うことを習慣づけた。その際に忘れたくない記憶にだけロックを掛けて、人生の記憶を構築していく。不必要な記憶は抹消していくのだ。共通の知識や常識はクラウドで管理されており、必要になったら都度ダウンロードすればいい。こうすることで、人間が生きて行くうえで絶対必須の記憶を失くすことはなくなった。
貯蔵量は天然の脳に及ばないとしても、効率化を図ることで機械脳の有効性は高くなっていき、今ではよほどの理由がない限り、脳を機械にしない人間は居なかった。
記憶屋は、よほどの理由が存在するレアケースの一つだった。
「スレジさん、実はもう一つお願いがあって」
「なんじゃ?」
「月末のアップデートが終わったら、私に会ってくれませんか? 私に私が大切な記憶を失くしたことを教えてください」
今後カナミは何千年、何万年、或いは何億の年を生きるかも知れない。そんな膨大な年月におけるたった1年間の記憶。たとえこの愛が真実だったとしても、積み重なった年の重みで潰れて、薄絹のように透けて見えるようなものになってしまうかも知れない。これを、忘れながらに記憶し続けることになんの意味が有るのかはわからない。来月のカナミは、スレジに教えてもらった『忘れた記憶』さえもロックを掛けずにデフラグしてしまうかも知れない。そうなれば、スレジにしたこの願いも意味のないことになる。それでも今は——少なくとも今のカナミには、忘却の先を知ることで、失くすことへの恐怖感をやわらげることが出来た。
「ふぉっふぉ。承知した」
スレジはまるでそれを知っているかのように、ふわりと笑った。
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