最終話 世界を壊さないで

 今日は朝からパラパラと小雨が降っていた。風も強く、鳥たちや獣たちの声も聞こえない。嵐の到来を知って、みな巣に籠っているのだろう。

 私たちもそうすべきなのは火を見るより明らかだ。だがしかし、アリッサは外に出ると言って聞かない。通信装置は完全には直っていないが、それでも目覚めの信号は送れるらしい。信号増幅装置の修理をする前に、試験的に通信装置を起動して、目覚めの信号を送ってみたいのだと言う。


 アリッサは、通信装置を荷車に乗せて自室から出口の鉄門前まで移動させ、水を通さないという緑色の布をかぶせた。

「なんでそんなに通信を急ぐの。嵐が去ってからでも良いはず」

 私は、雨具を着始めたアリッサに抗議した。風は最終的に木々を根こそぎ吹き飛ばしてしまうほど強くなる。そんな中で作業するのは自殺行為としか思えなかった。

『今、この瞬間にも冷凍睡眠棺で死んでいく人たちもいるかもしれない。狭い範囲でも良い。少しでも早く目覚めの信号を送らないと』

 アリッサは言った。彼女は頑なだった。私の制止を振り切り、通信装置を乗せた荷車を押して、外へ出て行ってしまった。

 私はあきれ果てた。そんなに死にたいのなら、一人で勝手に死ねばいい。そう思って、私は自室の寝床に潜った。


 まぶたの裏の闇の中で、思い浮かぶのはアリッサの姿だった。平たい顔、空の青の目、夕陽に輝く枯草の色の髪、キクラゲのような耳。嵐の中で、通信装置を起動させようと試みる彼女。荒れ狂う風雨の中で作業を行う。雨も、風も、どんどん強くなる。雷の閃光が繰り返し視界を白く染めた。そして……。


 私は外に飛び出していた。もう、雨は小雨となり、生暖かい風が吹きつけてくる。雷のごろごろと鳴る音も聞こえてきた。

 今身に付けている雨具は、アリッサの予備を彼女に仕立て直して貰ったものだ。これを着ていれば、無用に雨に濡れて体力を消耗することはない。

 アリッサの居所はわからないが、見当はつく。目覚めの信号を送るためには、あるていど開けた高い土地が必要だと聞いた。この嵐を前に、それほど遠くを目指すことはないことを考えると、場所は一つしかない。


 日の光は厚い雲に遮られ、まるで暁闇のように薄暗い。

「こんな時に出歩くなんて、考えなしのやることだ」

 私はひとりごちた。立ち並ぶ木々の間を縫い、なだらかな斜面を登っていると、風が木々の枝葉を揺らす音や、遠雷の轟きが聞こえてくる。雨脚が強くなっている。残された時間は少ない。

 低い丘を登っていくと、そこにはアリッサの後ろ姿があった。彼女は通信装置を荷車に乗せたまま、なにやら作業をしている。

 こちらにはまだ気付いていないようだ。彼女に近づき、肩を叩くと、びくりと身体を振るわせて、勢いよくこちらに振り向いた。

『なんでここが……』

「もう嵐が来てる。こんなところに居たら死んでしまう。今日は一旦帰ろう」

 私は声を張り上げて言った。そうしなければ、雨音と風音で声がかき消されてしまうのだ。

『大丈夫、あともう少し。あともう少しだけだから』

「嘘。通信装置の起動と使用には時間がかかるって言ったのは。アリッサだ」

 私はアリッサの瞳をじっと見つめる。アリッサは目を反らした。

「なんでそんなに通信を急ぐの。なぜ、いまなの。もしかして――」

 ずっと心の底にあった、口にするには憚れる推測。私はそれを、口にする覚悟を決めた。

「本当に死にたいの?」

 私がそう言った瞬間、アリッサはくしゃくしゃに顔を歪めた。

『もしも、私一人が生き残ったなんて、そんなことがあったら……」

「そんなのまだ、わからないでしょう」

『だから、早く通信を回復しないと。私、もう一人には耐えられない』

 アリッサは声を震わせて言った。それを聞いて、彼女の考えがようやくわかった。彼女は自分がヒトの最後の生き残りなのかもしれないという疑念に、耐えかねているのだ。

 これで、誰かが目覚めの信号を受け取って、返信して来れば万々歳。返信がなくとも、嵐の中で死んだらそれでよし。どちらにせよ、孤独の恐怖からは逃れられる。

 私は自分の腹がじんわりと怒りで温まるのを感じた。

「アリッサは一人じゃない。私がいる」

 私はアリッサの手を引こうとした、だが彼女は私の手を振り払った。

『子犬ちゃん、お願いだから――』

「私は子犬ちゃんじゃない! 私は、シーシェだ!」

 私は首に掛けられた翻訳器を引き千切って、投げた。翻訳器は強い風に煽られてどこかに飛んで行った。アリッサが困惑と驚きの表情を浮かべる。

 言っても聞かないなら、もうこうするしかない。投げやりな自殺なんて許さない。そもそも、私にはヒトの復活など、どうでもいいのだ。アリッサが無事なら、それでいい。

 私は荷台に乗った通信装置の横面を思いきり蹴りつけた。荷車の上に乗っていた通信装置が転げ落ち、そのまま坂を滑っていく。

 

 限りなく絶叫に近い悲鳴。

 アリッサの顔が歪む。絶望、憎悪、そして、怒りだ。背筋が粟立つほどの怒りを向けられて、私は――歓喜していた。やっと、彼女が私を見てくれた。


 叫び声。翻訳器を失った今、その意味はもう私にはわからない。

 雷がブナの木のてっぺんに落ち、幹を真っ二つに裂いた。その断面からは火の舌が空を舐めるかのように伸び、辺りを火の赤で煌々と照らした。風が勢いを増す。吹き荒れる強風が、木々の枝葉を空中で弄んだ。


 呻き声と共に、半ば踏みつけるような前蹴りが飛んでくる。いつもの洗練された蹴りではない。がむしゃらな、怒りに身を任せた蹴り。

 両腕を組んで受ける。あまりの衝撃に体勢を崩してしまった。濡れた草地に尻もちをつくように後ろに倒れ込む。私はあえてそのまま勢いを殺さずに、一回転して立ちあがった。

 アリッサが坂を滑っていった通信装置を追いかけて、走っていくのが見える。私はすかさずそれを追った。彼女の腰めがけて抱き着くように組み付く。その勢いのまま、二人とも転がって倒れ込んだ。

 私たちは濡れた草地の坂を滑り落ち、同時に立ちあがった。アリッサと目が合う。彼女の目は怒りに燃えている。彼女の全身に殺意が漲るのを感じた。

 彼女にもわかったのだろう。私を先にどうにかしなくては、いま目覚めの信号を送るどころか、今までやってきた遺物アーティファクト集めも水も泡だ。もはや、私は可愛い子犬ぱぴちゃんではない。ヒトの復活を妨害せんとする悪魔なのだ。


 私はアリッサのためだけの悪魔だ。あなた一人の命のために、他のヒトの生き残りを皆殺しにしよう。そのために、私は今ここであなたに勝たなくてはならない。


 雨が桶をひっくり返したように強くなる。激しい雨音で、もはやその他の音はなにも聞こえない。

 アリッサも私も、今は武器を携帯していなかった。これから先は、純粋な殴り合いステゴロになる。

 私は少し腰を落とし、拳を固く握り、その拳を顎の前に置いて脇を締め、両手を構えた。アリッサも同じ構えだった。当然である。今の私の格闘型は、アリッサのそれを見て盗んだものだからだ。

 アリッサが先に動いた。左足で軽く踏み込みながらの、右足での前蹴り。これはけん制だ。手の甲で払いのける。払いのけられた右足を今度は軸足にして、身体の重心を前に移動させながら、強烈な下段蹴りを放ってくる。これを腿を上げ、脛で受ける。脛がじんじんと痛む。彼女は即座に足を引き戻し、今度は足刀でこちらの顎を狙ってくる。瞬間的に身を沈め、その横蹴りを躱す。彼女の足が空を切る音が頭上で聞こえてきた。

 今度はこちらの番だ。踏み込みつつ、片足立ちとなったアリッサの左足に下段蹴りを放つ。

「……ッ!」

 アリッサが痛みで息を呑む。全力の蹴りが内腿に当たったのだ。さぞ痛かろう。彼女の目が驚きで見開かれている。


 私がアリッサとの生活の中で気付いたことの一つは、彼女より私の方が身体能力が高いということだった。私は彼女より重いものを持ち上げることができるし、地面に穴を掘るのも早い。ゆえに、動きが読めれば、私の方が圧倒的に有利だ。これは、彼女と私の差、と言うよりは、ヒトと『大いなる耳』の一族との差だと思うべきだろう。彼女は私と違って十分な大人だし、訓練も受けているのだから。

 そして、今のやり取りで気が付いたのは、私がアリッサのことを見ていたほどには、彼女は私のことを見ていないということだった。それこそ、私は四六時中暇さえあれば彼女のことを観察していた。彼女がどんなことに対して、どんな風に対応するのか。彼女がどういう風に体を動かすのか。私はこの夏でそれを十分に学んだ。

 雪辱の戦いのためというのもあった。だが、彼女の一挙手一投足が私の興味関心の範疇だったのは、純粋に私が彼女に惹かれていたからだと思う。


 だからこそわかる。アリッサが次に大振りに殴りかかって来るのを。それに合わせて、私も右手で突きを放つ。

 私の顔のすぐ横をすり抜けていく拳。アリッサの鼻を叩き潰す拳。

 今度は声もない。アリッサがよろめく。膝で彼女の腹を打つ。彼女が体をくの字に曲げて、倒れ込んだ。だが、けして休ませない。彼女の雨具の襟を掴んで、顔を上げさせる。全く信じられない――そう語る彼女の顔を、私は殴り飛ばした。


 一度敗北を喫した相手を打ちのめせたら、きっと爽快だろうと、少し前の私は思っていた。だが違った。今の私はどうしようもなく悔しかった。

 今度は言葉でなく、肉体のぶつかり合いの中で、アリッサがどれほど私を見ていなかったのかを理解していく。彼女の中で、私は最初に出会った時のままだった。一夏を共に過ごした経験など、まるでないかのようだった。


 私はアリッサの上に馬乗りになった。彼女が弱弱しい反撃を仕掛けて来る。

 こちらの顎を狙った突きを頭を振って躱して、その隙に彼女の顔面に拳を入れる。

 こちらの耳を掴もうとする右手を振り払って、その隙に彼女の顔面に拳を入れる。

 アリッサの動きが手にとる様にわかる。反面、彼女の反撃はがむしゃらだった。

 

 彼女を打つ私の頬を流れるのは、冷たい雨ばかりではなかった。温かいものが二筋、その中に混じっていた。それが、私の鼻先を伝って、彼女の顔に滴っている。

 嗚咽で息が詰まった。悔しくて、悲しくて堪らなかった。私は呻きながら、仰け反って空を見上げる。暗い鈍色の空から、大粒の雨が止めどなく降って来るのが見えた。

 いつの間にか、私がアリッサを打つ手には、力が入っていなかった。私の手は弱弱しく、彼女の胸を叩いているだけだった。彼女の反撃もいつの間にか止まっている。

 私はアリッサの顔を見た。彼女の真夏の空のように澄んだ瞳には、泣きじゃくった私の顔が映っていた。

 私たちはもうすっかり、全身ずぶ濡れだった。


 嵐は去った。『灰の森』では、嵐の前と変わらないチュイチュイ鳥の鳴き声や、一角鹿のいななきが遠くの方から聞こえてくる。朝の日差しが木漏れ日となり、草や木の根に覆われた地面を斑に照らす。

 アリッサと私は小川に沿って、丘を下っていた。遺物アーティファクト探しではない。特に目的のない、ただの散策だった。


 あの日、翻訳器を失った私は、アリッサの言葉が理解できなくなった。だから、今の私には彼女が私を恨んでいるのか、なにを考えているのか、確認する手段がない。

 実質、私のやったことはヒトの生き残りを皆殺しにしたのとほとんど等しい訳で、当然、彼女は私を恨んでいるとは思うが、実際のところどうなのかはわからなかった。

 ただ、確実なのはアリッサが今も私と暮らしているということと、彼女が私のことを「しーしぇ」と呼ぶようになったことだ。

 今の私にはそれで十分だった。例え、未来にアリッサの気が変わって、私が殺されても構わない。そう思っている。


 秋に差し掛かった季節も相まって、小川のそばは涼しくて爽やかだ。隣を歩くアリッサを見ると、彼女は少し微笑んだ。


 私が村に戻ることは、もうないだろう。私のわがままで、彼女は同胞を失ってしまった。彼女を一人にさせる訳にはいかない。死が二人を別つまで、それまでは彼女の元に居よう。


 私はアリッサの手を取って強く握った。彼女も私の手を強く握り返した。

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世界を壊さないで デッドコピーたこはち @mizutako8

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