Ⅱ 海の龍(1)

「――見えてきやしたよ! あれがセールンド島でさあ!」


 冷たい海風に吹かれながら、船首に立つ中年の船長が前方を指さしながら大声を出す。


「ほう……あれがかのヴィッキンガーを生み出した国の中心か……」


 その声にハーソン達もそちらを覗うと、水平線の彼方に黒く大きな島の影が確かに見える。


 相変わらずの荒涼とした北の海ではあるが、航海士の魔術によって海の悪魔が味方してくれているためか、ここまでの航海は極めて順調に進んでいる様子だ。


 …………ところが。


「……ん、なんだ? 急に暗くなってきたな……シケでもくるのか?」


 ちょうどその時、俄かに空がかき曇り、夕暮れ時のような暗さの海にはこれまで以上に強い風が吹き始めた。


「なにやら揺れが激しくなってまいりましたな。これでは島に着く前に船酔いしてしまいそうです」


 それにアウグストがボヤくように波も高くなり、荒々しさを増した海に船は大きく上下するようになる。


「帆をもう少したため! 風に流されるぞ! ……嫌な感じだな。こんな天気の日にはシーサーペント・・・・・・・が出るって話だ……」


 強風に帽子を押さえ、そんな黒々とした空を見上げながら船長がぽつりと呟いた。


「シーサーペント? あの海に棲み、船を沈めるというドラゴンの一種か? 大ウミヘビとも、一説にクラーケンと呼ばれる巨大なタコやイカの類だとも聞く……」


 その呟きを拾い、興味を覚えた様子でハーソンが尋ねた。


「ええ。そのシーサーペントでさあ。最近、この海域じゃあよく出るって噂なんですよ。ほんとにシーサーペントの仕業かどうかは知りませんが、確かに遭難する船は増えてます。しかも、喰われちまうのか、乗っていた者の遺体は誰一人上がってこねえって話です」


「海のドラゴン……ほんとにそんなものおるんですかね?」


 大真面目な顔をして答える船長の説明に、今度はアウグストがハーソンの方を見て尋ねた。


「うむ……俺も話に聞いたことしかないが、世界も海も広い。まだまだ我らの知らない生き物が存在している可能性は否定できないだろう……メディア、この手のことは君の方が詳しいかもしれんな。もしや見たことがあるのではないか?」


 ハーソンは顎に手をやって少し考えた後、もと魔女・・・・ということでそっち系はむしろ自分よりも知識は豊富だろうとメデイアに話を振ってみる。


「ご存知の通り、現に〝悪魔〟は確かに存在するのですから、霊体であればドラゴンのような容姿をした怪物がいたとしても不思議はないでしょう。ですが、それが現世うつしよの生物ということになれば話は違ってきます。まあ、魔術を使えば、似たようなものを造り出せないこともないかもしれませんが……〝ロマンジップ〟として旅をしていた時にも噂は時々聞きますが、やはり直に見たことはありませんでした」


 密かに慕うハーソンの問いかけに、メデイアはその期待に応えようと持てる限りの知識や経験を総動員して真摯にそう答える。


「そうか……ま、シーサーペントだけじゃなく他の人魚やセイレーンの話にしろ、得てして船乗りの間で囁かれる怪物の噂とはそんなものなのだろう。その実際に海難事故が多発しているというのはちょっと気になるがな……」


 そこまで期待もしていなかったがメデイアからも目撃談は得られず、微かにつまらなそうな表情を覗かせた後に何か引っかかるというような含みを持たせて呟くハーソンだったが……その時である。


「……せ、船長! ……あ、あれは……」


 指示を受け、中央に一本だけあるマストの横帆をたたんでいた船員が、大きく見開いた目で進行方向を見つめ、震える声で船長に訴えかけている。


「…ああん? ……なっ…!?」


 その声にそちらを振り向いた船長は、船員同様に目を皿のようにして言葉を失ってしまう。


「…………!?」


 いや、船長ばかりではない。同時にそちらを見たハーソン達も、そこにいたものを目にすると三人が三人、その場で呆然と立ち尽くしてしまう。


 黒雲に覆われた暗き天の下、荒ぶる海の波間に見えたものは、まさに〝ドラゴン〟だった……。


 大きさはこのコグ船と同じくらいはあるだろうか? 曇天の色と同様の黒い鱗で全身が覆われ、蛇の鎌首の如く反り返った首には真っ赤に光る二つの眼が禍々しく輝いている。


 ドラゴンの特徴としてよく云われるコウモリのような翼はなく、その代わりに魚のヒレのようになった脚が幾本も生えている……ウミヘビなら脚もないと思うのだが、それが〝シーサーペント〟というものなのだろうか? 


「……こ、こ、こ、こっちに向かってくるぞおぉぉぉーっ!」


 オォォォォォー…!


 その黒いドラゴンのような怪物が腹に響く唸り声のようなものを周囲に響かせ、水飛沫を上げながら海面を切り裂くと、船長が叫ぶように猛スピードでこちらへと突進して来る。


「に、逃げろおぉ~っ! お、主舵いっぱぁぁぁーい!」


「む、無理です! 間に合いませぇぇぇーん!」


 いまだ唖然と見つめているハーソン達の傍ら、脇目もふらずに突っ込んで来る怪物から逃れようと、船長や船員達は蜂の巣を叩いたような騒ぎになっている……が、この速度では間に合わないであろう。


「う、うわあっ…ぶ、ぶつかるぅ…うわああっ!」


「うくっ…!」


 船体を揺らす激しい大きな衝撃……船首にいた船長は後方へ吹き飛ばされ、他の船員やハーソン達も堪らず甲板へ投げ出される。


 だが、〝シーサーペント〟は頭から体当たりしたのではない……なんとか体を起こして皆が見れば、怪物はその二本の前肢――たくさんある脚の中でもそれだけ鋭い爪の生えた三本指を持つ、まさにドラゴンのそれの如き最も前にある脚を伸ばし、その巨大な爪を船体深くへと突き立てている。


 その一撃による破壊で、最早、浸水は免れないほどのダメージをコグ船はこうむってしまった。


 オォォォォォ…!


「ふ、船が……うわぁ熱っ…!」


 いや、それだけに怪物の猛威は終わらない。続けざま、その大きく開かれた牙の並ぶ口より紅蓮の炎を吐き出すと船首を焦がし、被害に呆然とする船長も慌ててその場を逃げ出す。


「……まずい。船尾へ逃げろ! 焼き殺されるぞ! ……炎まで吐くとはまさにだな。〝シーサーペント〟は大ウミヘビではなくドラゴンだったということか……」


 瞬く間に火の海と化す船首の有様に、ハーソンも皆を急き立て、自身も後方へ走りながらそんな考察を独り呟く。


「ほ、帆に燃え移ったぞ!」


「うわあっ! や、やめてくれえええっ~!」


 オォォォォォ…!


 とりあえず全員、なんとか船尾へと逃れることはできたが、その間にもドラゴンの吐く炎は唯一のマストと横帆を赤々と炎上させ、あの不気味な唸り声とともに鋭い爪の生えた二本の前肢を振り回すと、先程の衝突で破壊された船主をなおも必要に痛めつけている。


「……くっ……おもしろがってる場合でもなかったな……いかにドラゴンだろうと、その素首を斬り落とせば……フラガラッハっ!」


 山のようになった甲板の積荷を盾にして皆が固まる中、知的好奇心が勝っていたハーソンも足を踏ん張って戦闘態勢をとると、腰の魔法剣を引き抜いて勢いよく放り投げる。


 すると、そのひとりでに動く魔法剣はシュルシュルと音を立てて高速回転し、虚空を斬り裂きながら怪物の首目がけて滑空する……が、黒い鱗に覆われたその野太い首に直撃した瞬間、ギン! …と鉄の板を叩くような低い音が響いたかと思うと、その刃は呆気なく弾かれてしまった。


「チっ…! フラガラッハでも歯が立たぬとはなんと硬い鱗だ……」


「ドラゴンも悪魔と同じ魔物の類、魔力で守られているのかもしれません! ならば、わたくしの破魔の矢で……フン!」


 舞い戻った魔法剣の柄を受け止めて舌打ちするハーソンになり代わり、今度はメデイアが愛用の弓形魔法杖ワンドに弦をかけると、ハシバミの枝で作られた魔除けの力のある矢を番えて素早く放つ。


「…くっ! これでもダメだというの……」


 しかし、船の揺れもものともせず、見事、的を外さず怪物の胸に命中した彼女のその矢も、カン! …と鈍い音を立てて硬い鱗に弾かれてしまう。


「ならば、今度はこの私が…って、飛び道具も魔法剣も持ってなかった!」


 続いてアウグストも勇敢に立ち向かおうとするが、腰の剣に手をやると今さらながらにそのことを思い出し、こんな状況ではあるが一人ボケツッコミを演じている。


 オォォォォォ…。


「……ん? なんだ? 後退りしだしたぞ? もしや団長とメデイアの攻撃が効いたのか?」


 ところが、そうこうする内に怪物は前肢の動きをピタリと止め、どういうわけか無数にあるヒレを動かしてゆっくりと後退を始める。


「……な、なんだか知らねえが……や、やったぞ! シーサーペントを退けたぞ!」


「……や、やったのか? ……お、思い知ったか怪物め! さまあみやがれ!」


 徐々に遠ざかってゆくその様子を見て、それまでハーソン達の後で立ち尽くしていた船長や船員も威勢を取り戻し、自分では何もしていないのに口々に歓声をあげる。


「……いや、違う……そうじゃない……」


 …………だが、ハーソンの呟きが如く、それはぬか喜びであった。


 オォォォォォォォ…!


 後退りしているのかと思いきや、助走に充分な距離をとった怪物は前肢を前方へと真っすぐ伸ばし、その鋭く大きな爪を向けて再び勢いよく突っ込んで来たのである。


「……なっ!? ま、待て待て待て待て! やめろっ…うわああぁぁっ!」


 次の瞬間、それまで以上に強い衝撃と揺れがコグ船を襲う……そして、すでに甚大な被害を被っていた燃え盛る船の前半部は、船長の悲痛な叫び声とともに大破して海の藻屑と化した。

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