最終話 蒼穹の残月
橙色の尾を引き、夜空に一発の花火が打ち上げられた。
貂蝉が振り返ると、竹筒を抱えた許褚が煙にむせている。
「合図を送った。後は応援が来るまで持ち堪えろ」
襲い掛かる衛士を切捨てた曹丕は貂蝉に向かって叫んだ。
そうして、鋭い太刀筋で二人、三人と次々に屠っていく。並みの貴公子の腕ではない。一流を成す程の、恐るべき剣技だった。
ほうっ、と貂蝉は息を吐いた。成程、これは自らを
「ですが、もっと他にやり方があったんじゃないですか?!」
貂蝉は突き出された矛を身をよじって
そのまま懐に飛び込み、矛を握った相手の手首を斬り裂く。返す剣で首筋を狙った貂蝉は、だが一瞬、躊躇した。
衛士の怯えた目と視線が合った。自分とそう変わらない年頃の若い男だった。貂蝉は舌打ちしてその男を突き飛ばした。
「うわーーーっ!」
喊声と共に横合いから剣が突き出される。目前の衛士に気を取られていた貂蝉は、わずかに反応が遅れた。甲冑を身に着けている衛士と違い、その刺客は官服だった。それも貂蝉の意表を突いたのだ。
(しまった)
後悔で身体が硬直した。かつての貂蝉であれば考えられない事だった。
その背中が強く押され、貂蝉はよろめく。
背後で、研ぎ澄まされた金属が肉を切り裂く音が響いた。膝をついた貂蝉は苦悶の声に振り返った。
そこには献帝が彼女を庇うように立ちはだかっていた。その背中から剣の切っ先が突き出ている。
「陛下を……、陛下を刺したぞぉっ!」
悲鳴のような声を上げているのは伏完らと一緒にいた
「これで我らの世がやってくるっ」
呉子蘭はふらふらと後退り、剣を引き抜く。献帝はその場に崩れ落ちた。
「陛下、……貴様っ!」
貂蝉は迷わず短剣を揮った。
首から鮮血を噴き上げ、呉子蘭は絶命した。
統制のとれた軍団が広場内へ突入し、ようやく混乱は収束に向かった。衛士とは比較にならない精強な軍を指揮しているのは隻眼将軍、
曹操の許に駆け寄り、遅くなった事を詫びる。
「伏完と王子服は捕らえました。伏皇后は華歆が捕縛に向かっています」
うなづいた曹操は貂蝉と献帝の方を痛ましい目で見る。
「あれも狙い通りか、丕よ」
曹操は曹丕の
「あわよくば、とは思っておりました」
感情の籠らない声で曹丕は嘯く。曹操は、ちらりと嫌悪の表情を浮かべた。
貂蝉は献帝の傍にうずくまっている。
献帝の傷口からは止めどもなく血が流れ出していた。
「医者を、早く!」
破り取った衣服の袖で傷を押えながら貂蝉は叫んだ。だが駆け付けた献帝の侍医は、その傷を見ただけで黙って首を横に振った。
献帝はうっすら目を開いた。何事か言おうとしている。
貂蝉は身体を屈め、献帝の口元に耳を近づけた。
「……母上」
微かな声で献帝は言った。その目は真っすぐ貂蝉を見詰めている。献帝、劉協は貂蝉のなかに母親の面影を見たのだろう。
貂蝉は何度も頷き彼の手をとる。
安心したように、透き通った笑顔になった劉協は、ゆっくりと瞼を閉じた。
月はいつの間にか中天にかかっている。
―――遠くで猫が鳴いた。
☆
「おお、これか? まったく、自分で縫い合わせるのは苦労したぞ」
華佗は首のまわりの傷を指でなぞった。
「曹操め、もう二度と治療などしてやらぬからな」
ぷんぷん怒っている。
はー、と貂蝉はため息をついた。これは悪夢なのか、口の中で呟く。
「
従僕の
寝台で上半身を起こした献帝はあからさまに嫌な顔をした。
「さあ、覚悟なさい。陛下」
貂蝉は匙で掬った薬湯を献帝の口に流し込む。
献帝は重傷を負ったが、華佗の手術と貂蝉の看護によって命を取り留めた。
「また生き永らえてしまいました」
いまの献帝は、貂蝉がかつて謁見した時の自堕落な姿とは別人のようだった。
「なに。そなたと曹操は大事な金づるじゃからのう」
「またそんな事を」
華佗は廖化に
「えーい、うるさい。よいか。わしの忠告によって、この男は今日まで暗殺されずに済んだのだ。ほれ、あの無能者の振りも堂に入っておったではないか」
貂蝉は不思議気に華佗と献帝の顔を見比べた。泥酔していたのも演技だったようだ。しかしあの時、胸が貧相だと言われたことは決して忘れないが。
献帝は頭をさげた。
「華佗さまと、
ふん、と華佗は鼻を鳴らした。
「わしはともかく、徐福は気まぐれと道楽でやっておるだけじゃからのう。感謝には及ばんと思うぞ」
「華佗さま。徐福というのはどなたですか」
「おや、貂蝉。お主、会った事があるであろう。そうか、今は
だがそれは、もう四百年も前の人物の筈である。徐庶はその徐福の子孫だと言っていなかっただろうか。
「えー、これはあくまでも伝承ですから、信じるか否かは個人の自由です」
なぜかその場をまとめるように、廖化が言った。
「用法用量は自己責任じゃ。医者だけにのう」
華佗も意味ありげに笑った。
☆
月下の争乱から間もなく、曹操はこの世を去った。
跡を継いだ曹丕は献帝から皇帝位を譲り受け、新たな王朝「魏」を建国し、初代皇帝「文帝」となった。
あわせて曹操には「武帝」の称号が追贈される。これにより曹操は後の世で、魏の武帝「魏武」とも呼ばれる事になる。
こうして公式には漢王朝は滅んだが、蜀に入った劉備はそれを認めず「蜀漢」を建てる。あくまでも漢の正統は続くことを宣言したのである。
やや遅れて江東の孫権も「呉」の皇帝を自称した。
本当の意味での『三国志』はここから始まるのだが、もはや貂蝉とともに語るべき事績は無い。その後については簡単に述べておく。
蜀、呉との戦いは続くが、もはや局地戦である。すでに大勢は決しており、中華は統一に向かい始めていた。
皇帝位を曹丕に禅譲した献帝は一公候となる。山陽の地に領土を持つ事から「山陽公」と呼ばれ、曹丕の次代の
一方、貂蝉については何ひとつ公的な資料が残っていない。民間に残された伝承も様々である。曹丕の側室になったというものから、華佗の手術で顔を変え、民衆のなかで人知れず暮らしたと云うものまで数限りない。
唐代の伝奇物語に登場する
結局、この後の貂蝉がどう生きたかは分からない。
ただひとつ手掛かりとなるのは、山陽公こと劉協が平穏に天寿を全うしたことである。貂蝉がそれに寄り添ったのは、ほぼ間違いない。
貂蝉は傍らの劉協と共に、邸の庭から蒼穹に浮かぶ幽かな月を見上げている。士大夫の思惑に翻弄され、刺客として少女期を過ごした貂蝉も、こうして穏やかな晩年を迎えた。
それが彼女の物語の結末として、もっとも相応しいのではないだろうか。
―― 了 ――
少女刺客伝~月下美人の咲く庭で 杉浦ヒナタ @gallia-3
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