第62話 月下の襲撃、献帝の危機

 その日は夕刻を前に、宮殿前の広場に人が集まっていた。

 曹丕が催した月見の宴が間もなく始まろうとしている。主賓は言うまでも無い。漢帝国の皇帝、献帝である。


「宜しいのですか、わたしのような者が」

 見回すと朝廷や魏公府の高官ばかり集まっている。そんな中で貂蝉は、下女ではなく賓客として遇されていた。


「そなたは朝廷の女官長格であり、丞相府の尚書令補佐を兼任している高級官僚なのだぞ。知らなかったのか」

「初耳です」

 涼しい顔をしている曹丕を貂蝉は睨みつけた。「格」であり「補佐」であるから実権は伴わないが、正式な役職には違いないだろう。

 これはいずれも、曹丕による強引な人事の結果だと想像できた。


「よく来た、貂蝉」

 振り向いた彼女はあわてて礼を返す。車輪のついた椅子に腰かけた曹操が穏やかな笑顔を浮かべていた。押しているのは親衛隊長の許褚きょちょである。


「最近は調子が良いからな。だが子桓(曹丕の字)、やはりこの貂蝉を招いたのは失敗ではないか。わたしはそれを懸念している」

 貂蝉は思わず曹丕を見た。曹丕はさすがに硬い表情で唇を引き結んでいた。


 だが曹丕はその口元を、ふっとほころばせ、朗々とした声音で詩の一節を口ずさんだ。


 沈魚落雁

 閉月羞花


(美女に見蕩れた魚は水に沈み、雁は空から落ちる。月は雲に姿を隠し、花は羞じて自ら萎れるだろう)


「こういう事でございますか、父上」

 曹操も嬉しそうに頷いた。

「うむ。貂蝉の美しさに怖じて、月が顔を出さないのではないかと思ってな」


「からかわないで下さい」

 むっとした貂蝉を見て、曹操と曹丕は揃って笑った。


 ☆


 曹操は曹丕と貂蝉を侍らせ、ゆっくりと杯を傾けていた。

「そろそろ、ではないか。子桓よ」

 二人も城壁の彼方の空へ目をやる。


 山ぎわの雲がやや明るくなってきた。月の出も近い。



「これは魏公。お加減はいかがですかな」

 そこへ伏皇后の父、伏完が歩み寄って来た。背後におう子服しふく子蘭しらんといった朝廷の高官を引き連れている。

 伏完は弛み切った頬を片方だけ歪め、伺うように貂蝉たちを見回す。


(下卑た笑い顔だ)

 不愉快になった貂蝉は、そっと目を逸らした。


「ところで曹丕どの。此度の「月見の宴」には、相応しからぬ者も呼ばれておるようですな」

 そう言って伏完は懐から名簿らしきものを取り出した。


「多額の賄賂を受け取った疑惑のある者。兄嫁と密かに通じたと言われている者も入っておる。まったく、この人選は誰が行ったものだ」

 伏完は相手の弱みに付け込むことが嬉しくて堪らないように、相好を崩した。


「ぜひここで、ご説明を頂きたいものですな。五官中郎将どの」

「国費をもって行う儀式ですから、人選した方の責任も大きいですぞ」

 王子服と呉子蘭もかさにかかって曹丕に迫る。


「もちろん、選んだのはわたしです」

 曹丕は、まったく表情を変えない。平然と彼らを見返す。

「賄賂、密通。それは、あくまでも噂。いや、たとえ真実であっても変わりはないが」

「何という暴言を」


「暴言、ふん。丞相府には、清廉潔白なだけの無能者は不要」

 伏完たちに曹丕は傲然と言い放つ。


「おのれ、曹丕。貴様を朝議で弾劾する事も出来るのだぞ」

 伏完は喚きたてる。しかし曹丕の背後で、色白の男が鋭い目を向けているのに気付き、口をつぐんだ。御史ぎょしとして官吏の監察を行う華歆だった。


「王子服どのは、国による新たな太学たいがく開設に、強硬に反対なさっていますね」

 華歆は静かに言った。


「当然だ。学問の自由を国が奪う事になるのだぞ。だから反対しておる。それがどうしたと云うのだ」

 忌々し気に王子服は吐き捨てる。

 

「ですがそれは建前。実は、叔父上の私塾経営に影響を与える事を恐れていらっしゃるのではありませんか?」

 明らかに王子服の顔色が変わった。

「な、何をいう。証拠はあるのか、証拠は」


「先程は、噂だけで曹丕さまを非難していらっしゃったようですが」

 華歆は皮肉な表情を浮かべた。


「先程、叔父上ご本人から、とくとお話を伺いました。王子服さまへ送られた品々の明細も入手しております。これは俗に賄賂と申すものではありませんか」

 華歆はその紙片を拡げた。金、玳瑁たいまい、翡翠など大量の物品の名称が記載されていた。その紙片には不気味な赤黒い染みがいくつも付いている。

 やられた……、王子服は低く呻いた。



「皇帝陛下、ご入来!!」

 その時、大きく声が掛かった。貂蝉は宮殿に目をやった。

 献帝はきざはしを降り、曹操の許へ歩いて来る。

 車椅子から立ち上がろうとした曹操を押し留め、献帝は集まった人々に呼び掛けた。


「今日は無礼講である。皆の者、過ごすが良いぞ」

 静まっていた広場はあちこちで歓声があがった。


 ☆


 宴が始まって間もなく、伏完らは目配せし合い、その場を離れようとした。

「伏完さま、どちらへ」

 不穏な気配に気付いた貂蝉は声を掛けた。だが、舌打ちした伏完や王子服らは、そのまま足早に城門へ向かって行く。


 伏完は衛士たちに何事か命じ、曹操たちを指差したのが遠目でも見えた。

 数十人の衛士が矛を構え動き始めた。

 追い散らされた人々は逃げ惑い、すぐに広場は大混乱に陥った。


「曹丕さま、あれは?!」

 貂蝉は思わず悲鳴に近い声になった。


「うむ。思ったより多いな。これは困った」

 曹丕は頬を指先で掻いている。

「そんな事を言ってる場合ですか。何とかして下さい!」

「陛下を人質にすれば、いかようにでもなると思っていたのだがな」


「それは無理だ。朕は人質にはなれぬよ」

 献帝が寂しそうに言った。

「そうでしょうな。誰も好きこのんで人質などなりたくはない。だが、お願いする方法はいくらでもある」

 薄く笑った曹丕は剣に手をかけた。

「曹丕さま。乱暴はいけません」


「違うのだ。曹丕、貂蝉。やつらは、そなたらを朕もろとも殺害するつもりだ」

 意外な言葉に、曹丕と貂蝉は思わず献帝の顔を見た。

「伏皇后には子がいるからな。ここで朕が、漢の血統は途切れる事はない」


 貂蝉は黙って袖口の短剣を抜いた。


「でもそれは簒奪です。見過ごす事はできません」

 恐れる様子もなく、献帝を庇いつつ前に出る。貂蝉のその姿を見た曹丕は目を瞠った。そして愉し気に笑う。

「面白い女だ。では陛下は頼むぞ。……許褚、魏公を護れ!」

 

 さて、と曹丕も長剣を抜き放った。


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