第61話 五官中郎将、曹丕
曹操の後継者は、長子の
五官中郎将と副丞相を兼ねるこの青年は、父によく似た理知的な容貌を持っている。やや軽躁なところもある曹操に比べると性格は慎重で、曹操から冷酷とも評される程、冷静沈着さが際立っていた。
三國志 『文帝紀』によると、曹丕は騎射などの武芸にも優れていたというが、そこは単なる武人ではない。弟の
位階を進め魏公となった曹操は、彼を太子として後を託す事にしたのである。
関羽の葬儀を終えた頃から、曹操は酷い頭痛を訴えるようになっていた。時に激しく嘔吐し、食も摂れず日に日に衰弱していった。
「頭が痛む……、早く
横たわった曹操はうわごとの様に繰り返した。確かに、神医として天下に名高い華佗の他に、いまの曹操を治療できる者がいるとも思えなかった。
「ですが、華佗は父上が処刑してしまわれたではありませんか」
曹丕は困ったように首を振った。
頭痛の原因を取り去るのだと称し、嬉々として曹操の頭蓋骨を切開しかけた華佗に激怒し、斬首を命じたのは曹操自身だった。
「愚か者。あの華佗がそう簡単に死ぬわけがないであろう」
「いや、しかし……」
華佗は市場に引き出され、彼の目の前で首を落とされたのだ。よもやあの少女然とした姿を見誤るはずもない。彼女の従者だろう、猫を連れた若い男が、華佗の首と小さな身体を運び去ったのもよく覚えている。
「あやつなら、たとえ首を落とされても、自分で縫い合わせて平気な顔をしているに違いないではないか」
さすがに曹丕は口をつぐんだ。そうであれば、もはやそれを人と呼ぶ事はできないだろう。
曹丕は暗澹とした表情で曹操の居室を出た。あれだけ怜悧な頭脳を持っていた父が、迷妄に侵されている。曹丕は大きく息を吐いた。
曹操が最期の
☆
廊下でひとりの女官とすれ違った曹丕は、首筋にひやりとした冷気を感じ、思わず振り返った。
すぐに顔を伏せ拱手したその女官に曹丕は見覚えがあった。徐庶が献帝の所に連れて来た女だ。曹丕は宮廷内に勤めるほぼ全ての者の顔と名を憶えていた。
「貂蝉と云ったな」
まさか名を知られているとは思わなかったのだろう。驚いたように貂蝉は顔をあげた。曹丕と視線が合い、慌ててまた顔を伏せる。
「ほう」
曹丕はため息のような声を洩らした。彼は曹操が袁紹を滅ぼした際、袁紹の
「構わん。顔を見せよ」
曹丕は身体を屈め、貂蝉の顔を覗き込んだ。鋭い視線が貂蝉の瞳を射抜く。
「おかしいな。お前はなぜ、そんなに殺気を放っている」
冷ややかな声で曹丕は囁くように言った。貂蝉は我知らず、身体を強張らせた。
「まるで人を殺したことが有るような気配だ」
「そういえば、人は死後どうなると思う」
貂蝉は顔をあげた。問いかけた曹丕に、からかうような様子は見えなかった。
「なぜ、わたしに」
逆に訊かれた曹丕は不思議そうに首を傾げた。この男にしては珍しく、自信無げな表情を浮かべている。自分でも何故なのか分からない。ふと口をついて出た言葉だった。
「そなたは劉備の許に居たのだろう。関羽の事は知っているか」
「少しなら」
迂闊な事は言えない。貂蝉は短く答える。
その用心深さに気付いたのだろう、曹丕は苦笑した。
「魏公は今、病の床にある。それを関羽の祟りだと言うものがいる」
「有り得ません!」
即座に答えた貂蝉に、曹丕は目を瞠った。
「関羽さまは死んで人に祟りを為すような方ではありません。それに曹操さまの事を尊敬なさっていました」
「そうだろうな。でなければ、我が父曹操が、あそこまで惚れこむ訳も無い」
納得した曹丕は何度も頷く。
「そんな噂を流しているのは、魏公と関羽をともに貶めようとする意図を持つ者であろう。……およそ想像はつく」
大きく息を吐いた曹丕は、ふと表情を和らげた。
「貂蝉。人はやがて土に還る。そうなればもう苦楽を感じる事はない。これまでの王候や皇帝たちのように、財宝と共に埋葬するなど愚の骨頂だと思わないか」
これは、この当時としては異端と言っていい考え方だった。しかし貂蝉は曹丕の言葉に頷いていた。
「死んだものが富貴を求めはしない。それはむしろ、生きている者たちのために使うべきなのだ」
その言葉通り曹操と曹丕の墳墓の副葬品は、わずかな数の
「なんだかおかしな話になったな。許せ」
照れたように曹丕は手を振る。
そのまま歩み去ろうとして、曹丕はまた足を止めた。
「近々、月見の宴を開こうと思う。献帝陛下とその側近たちも招くつもりだ。そなたも出席するがいいぞ、貂蝉」
冷静な中にどこか意味ありげな表情で曹丕は言うと、今度こそ背を向け大股に去って行った。
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