第60話 三国鼎立、ここに始まる

 古来、王朝に害をなすものとして宦官かんがん外戚がいせきがあげられる。


 改めて云うまでもないが、宦官とは去勢された男の事である。男性器を切除されたその者たちは、主に後宮をとした。

宦官と呼ばれる者の中で、「史記」を編纂した司馬遷しばせんや、艦隊を率いて大航海を何度も成し遂げた鄭和ていわのような傑物は例外中の例外といってよく、大抵の宦官は皇帝に逸楽を勧め、自らもそのおこぼれにあずかろうとする者たちである。


 一方、外戚と呼ばれるものも、その性質は大きく違わない。

 漢の高祖劉邦の妻、呂氏の一族はその能力に関わりなく、多くが将軍や諸侯の地位に就き、無能と貪欲さによって大いに朝政を乱した。


 近くでは霊帝の代に大将軍となった何進かしん皇后の兄であるが、その出自は低く身分卑しいものであった。妹が皇帝の寵愛を受けた事で大将軍にまで昇進したのであり、彼自身何ら軍事的素養があった訳ではない。

 敵対する宦官を排除しようと董卓を都に呼び寄せ、漢王朝衰退の決定的な原因を作ったのはこの男である。しかも当人は宦官たちによって暗殺されたのであるから、お粗末と言わざるをえない。


 献帝の后である伏皇后の父、伏完ふくかんも、その外戚の代表と言っていいだろう。この男の経歴は明らかでないが、先々代の桓帝の娘を妻に持つことから、有力な貴族の一員であったのは間違いない。


 伏完は娘を通して献帝を操り、思うさま権力を揮う事を夢みていた。しかし現実は臣下である筈の曹操に圧倒され、日陰での暮らしを余儀なくされている。

 一方、娘の伏皇后も権力欲にかけては父に劣らない。何としても曹操を失脚させ、皇帝の親政を成し遂げるべく、各地の諸侯に謀反を唆しているのだ。


 だがそれは、全て自らが皇后一族として相応しい豪奢な暮らしをしたいが為のもので、民衆への思いなどと云うものはひとかけらも無かった。


 ☆


 孫権と周瑜から代わる代わる恫喝を受けた劉備は、仕方なく荊州の南部を手放す事にした。

 いや、手放すと言えば、あたかもそれまで正当に所有していた響きがあり、誤解を招くかもしれない。正確な表現をするなら、曹操と孫権が争いしのぎを削っている隙に劉備が掠め取ったもの、と云う事になる。


 赤壁の戦いの勝利がすべて孫権の功績では無いにせよ、劉備の貢献度などたかが知れている。これは当然の要求であり、劉備が苦情を言い立てるなど、それこそ道義に外れている。


「仕方がないのう。では、諸葛軍師の言う通り蜀を奪うとするか。ならば荊州の南部など孫権にくれてやっても惜しくはない」

 劉備は君子然とした外面からは想像できない事を平然と言う。孔明は不安げに劉備の顔を覗き込んだ。

「おかしいですな。普段の劉備さまであれば、いや蜀の太守 劉璋りゅうしょうは我が同族。攻め取るなど出来ぬぞ。とか、おっしゃりそうですが」


「何やら、わしの中で蜀を奪えという声が聞こえているのだ。これこそ天の声ではないかのう。ぐふふ」

 年に数度、こんな黒い劉備が出て来るらしい。諸葛孔明は肩をすくめ、出立の準備を命じた。


 蜀の北部、漢中と呼ばれる地域を支配しているのは『五斗米道』と称する道教の一派だった。宗教団体というが、実質はひとつの国であり、数多くの兵を持ち、その勢力を拡大し続けていたのである。


 孔明は、内通者の張松ちょうしょうを通じて蜀の政権中枢に工作を行い、劉備に対し五斗米道討伐を依頼させる事に成功した。


 大義名分を得た劉備はすぐさま蜀へと進軍する。ただし襄陽を含む荊州北部は曹操の勢力と接する重要な地域である。

 劉備は悩んだ末、義弟の関羽を荊州の守備に残す事にした。


 ☆


 その関羽の敗死が伝わったのは、それから間もなくだった。樊城の曹仁と戦っていた関羽の背後を孫権が衝いたのだ。

 同盟軍であると信じていた孫権の裏切りに、関羽は一たまりも無く敗れ、ばく城で捕らえられ、斬られた。


 許都の曹操へ関羽の首が届けられた。

 塩漬けのそれを見た曹操は言葉を失い、目頭を押さえた。


「王侯の位で葬儀を行え」

 やっと、曹操は命じる。そして、そのまま部屋に引き籠った。




 許都に届いたのはそれだけでは無かった。

「貂蝉。すまないが、ちょっと来てくれ」

 公文書の整理をしていた貂蝉は徐庶に呼び出された。


 連れて行かれたのは厩舎だった。

 数人の馬飼いが集まって、その中を覗き込んでいる。徐庶と貂蝉を見て、彼らは厩舎の前から離れた。


「ここに連れて来られる前から、ずっと何も食べていないのです」

 年配の男が憔悴しきった顔でその中を見やった。

「こんな馬は初めてです」


 貂蝉は厩舎の柵に手をかけた。薄暗い中にそれは横たわっていた。

 並外れた巨躯に、深紅に近い褐色の馬体。


「……赤兎」

 だが、彼女もよく知るその姿は変わり果てていた。腹部は張りを失い、逞しかった四肢も無残にやせ細っている。

「関羽どのが斬られてから、この馬はずっと……」

 徐庶は震える唇を固く結んだ。


「赤兎!」

 もう一度、貂蝉は声をかけた。

 赤兎馬の閉じていた目が開いた。ぶるっ、と鼻を鳴らす。


 貂蝉の声に応じるように、赤兎馬は身体を起こしていく。一度だけ揺らいだが、赤兎馬は大地を踏みしめ立ち上がった。

 かつての雄姿を彷彿とさせる凛とした姿だった。ゆっくりと柵に歩み寄り、鼻先を貂蝉の顔にすり寄せる。


「ああ、赤兎」

 貂蝉はその鼻面を優しく撫でてやる。赤兎馬は気持ちよさそうに目を閉じた。

 そして、そのまま二度と目を開くことはなかった。



 

 ―― 劉備が蜀に入った事により、後の魏、蜀、呉という三国時代の勢力図がここに出来上がる。

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