第59話 献帝と伏皇后
丞相府では朝議が行われていた。
議題は荊州の戦況である。赤壁の戦いで勝利した孫権と劉備の同盟が、早くも亀裂を生じ始めていたのである。
長江南部を平定した劉備は、曹仁と孫権が争う隙を衝き襄陽までも手中にしていた。これに激怒した孫権は長江沿いに軍を遡上させ、劉備を討つと息巻いているという。
「孫権には、樊城の曹仁将軍と協力し挟み撃ちにすべし、と申し送っております」
長身をゆらゆらと揺らしながら、参謀の程昱は報告する。
「まさか。この間まで敵対していた江東の連中と手を結ぶというのか」
夏侯淵が慌ただしく声をあげる。
「当然です。昨日の敵は今日の何とやら、と申します」
「よろしいでしょうか」
末席から声を上げたのは徐庶だった。
「最近、劉備の下に軍師として加わった諸葛亮という男がおります」
程昱は中央の席に着く曹操を見た。曹操は先を促す。
「諸葛亮
「ふむ。天下三分とは」
少しだけ身体を乗り出すと、曹操は顎ひげを撫でる。
「劉備はその配下に人材は多いものの、依って立つ地盤を持ちません。そのため、諸葛亮はこの中華を三分し、その一つを得るべしと策を提示したのです」
先代霊帝の頃より、さしも偉大なる漢帝国も諸侯が乱立する状態が続いていた。
冀州の袁紹、揚州の袁術、荊州の劉表は曹操によって滅ぼされたが、江東の孫権は更に勢力を拡大しつつあった。そして赤壁の戦いに至った。
曹操と孫権が争うことで、荊州は空白地の様相を呈していた。そこを劉備に横から攫われたのである。
「荊州を手にしたのはまだ序章にすぎません。あの男が次に狙うのは、天賦の地、
――蜀だと。朝議に集った者たちからため息のような声が漏れた。
「蜀を手にすれば、この中華の大地に
大陸の西の果て。秦嶺山脈に隔てられた先に蜀はある。遠く秦の時代から開発が進められてはいるが、いまだ中原から見れば人が棲むとも思えない蛮地である。
だがそこは中原有数の穀倉地帯でもある。
「高祖の例に倣うつもりか」
曹操が顔をしかめた。
漢の高祖 劉邦は秦を倒したあと、漢中王に封じられた。その後、蜀の資源をもとに楚の覇王 項羽と決戦し、遂に漢王朝四百年の礎を築くことになる。
「我々は奴らに先んじて漢中を、そして蜀を手に入れねばなりません」
徐庶は居並ぶ文武の諸官を見渡し、宣言した。
☆
小さな灯火では謁見の間を隅々まで照らすに至らない。わずかに正面の玉座だけが闇に浮かび上がっている。
高価な香木で作られ、文字通り玉で装飾されたその椅子には、若い男がひじ掛けにもたれ腰掛けていた。
華歆に従いその前に進み出た貂蝉は、魚油が燃える刺激臭のなかに、腐った果物のような匂いを嗅いだ。
「そなたが、新しい側仕えの女か」
どこか呂律の回らない声で、その男は言った。血色が悪く不健康にたるんだ肌と、だらしなく着崩した衣服。落ち着きなく小刻みに身体を震わせているのは、無意識に酒杯を求めているからだろう。
「貂蝉と申します」
貂蝉は顔をあげ、献帝を見る。しかし酒精で濁った彼の表情は動かなかった。
「長安でいちど、お目に掛かった事がございます」
「そうか」
何かを思い出そうとする気配すらない。董卓の名を出せばどんな反応をするだろう、貂蝉は胸の中に冷たいものを感じた。
「だが、朕は胸の貧相な女は好まぬ。女はもっとこう、豊満でないとのう」
は、はは、と力なく笑う献帝。
そのまま両脇を宦官に支えられ、覚束ない足取りで謁見の間を出て行った。
しばらく顔を伏せたままの貂蝉に、華歆はそっと声をかけた。
「貂蝉どの、胸の事は気になさるな。それはもう、今更どうなるものでもない」
「違います。そんな事を考えていたのではありません!」
憤然と貂蝉は立ち上がった。すさまじい殺気が放射される。
「さあ、戻りますよ」
冷たい目で華歆を見下ろす。華歆は背中に冷や汗を流し、がくがくと頷いた。
「あの方は聡明さで皇帝に選ばれたのだと聞きました」
董卓が少帝
「ですが、神童が長じて凡庸人に成り下がる例は、枚挙に暇がありませんから」
現に、この私も昔は神童と呼ばれたものです。そう言って華歆は笑う。
「お待ちなさい」
声を掛けられ、貂蝉と華歆は振り返った。
美麗な衣裳を身に纏った女性が数人の女官を引きつれ、ゆっくりと歩み寄って来た。強い脂粉の匂いが漂う。
美しいが、どこか狷介な表情のその女は貂蝉を見てあからさまに顔をしかめた。
「新しい女官か。妾に挨拶も無いとは、どういうつもりか」
貂蝉はすっと身体をかがめた。かわりに華歆が前に出る。
「これは伏皇后さま。この者はまだ宮廷に不慣れゆえ、失礼の無いよう教育を施した後、ご挨拶に伺う予定でございました」
華歆は爽やかな笑顔を浮かべ言った。
「どこの田舎娘なのじゃ。……まあよい。華歆、知っておるぞ。そなた妾の周りを嗅ぎまわっておるようではないか。いったい何をしておるのじゃ」
驚いたか、と言わんばかりの伏皇后の態度だった。
「お気づきでしたか、これはお恥ずかしい。しかし、お許し下さい。美しい花に引き寄せられるは、愚かな虫の習性にございます」
貂蝉は思わず横目で華歆を見た。どの口がそんな台詞を言わせるのだ。
おーっほほほ。伏皇后は高らかに笑う。
「そうか、愚かな虫か。ならば仕方ない。だが、妾は皇后であるぞ。身分の違いを弁えるのだな。火に近付きすぎると焼け死ぬ事になるぞよ」
ははっ、と華歆は頭をさげた。
「なるほど。あれは……」
伏皇后の一団を見送った貂蝉は呆れた声で言う。
「どうだ。始末におえないだろう」
「確かに」
「だが、お遊びはそろそろ終了だ」
華歆は普段の柔和な目を鋭く光らせた。
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