第58話 赤壁の余波は許都を蔽う

 赤壁での大敗はすでに伝わっている筈だが、許都に動揺した空気はまったく感じられなかった。街路を大勢の人が行き来し、露店からは明るい声が聞こえている。

「普通に賑わっていますね」

 貂蝉が言うと、徐庶も軽くうなづく。


「やはり、被害を受けたのが主に荊州の水軍だからだろう。ここから出征していった兵士の家族は、あまり心配する必要がなく済んでいるようだな」

 降伏した国の兵を先鋒に立て、まず戦わせる。これは戦争の常道である。


 侵略を受けた場合、戦争を放棄し無条件降伏すれば国民は救われる、などと言う者があるが、現実の前にはそれは幻想でしかない。

 降伏した後は侵略者の手先となるか、それを肯んじない場合は皆殺しの憂き目を見るか、そのどちらかである。

 無抵抗主義に感動するような高潔な精神を持った侵略者は、どの世界にも稀であろうと思われるからだ。


 かつて荊州を支配していた劉表は、一頭の巨大な牛を自慢していた。他の倍ほどの体格を持つその牛は、見るものを驚かせた。

 だが曹操は荊州に入ると、すぐにその牛を屠殺し、肉を兵士たちに振舞った。

「草を他の三倍も喰らう癖に、ひとつも農耕の役に立たない」

 というのが理由だったという。

 無為徒食、あるいは口舌の徒というものを曹操はひどく嫌った。それが動物にまで及んだと考えるのも面白い。


 ☆


 情熱的な詩人であり冷徹な武人である曹操は、政治家として徹底した現実主義者でもあった。

 そのため、曹操の政権に参与する官吏、将士は最大限の能力を発揮する事を求められた。そしてそれに応えられる者だけが残っていると言っていい。

 荀彧、荀攸、鍾繇しょうよう程昱ていいくといった文官や参謀。武将も夏侯惇、曹仁、張遼、李典、楽進など、いずれ劣らぬ精鋭ばかりである。


 漢王朝の宮廷において諸般を司る華歆かきんもまた例外ではなかった。


 貂蝉は許都の政庁でその男に引き合わされた。

「華歆さまは、もしや……」

 髯の無い女性的な顔立ちから、宦官ではないかと貂蝉は思ったのである。

「いや。もともと髯が薄い体質なのですよ」

 華歆は苦笑した。

「袁紹が宦官を一掃した際、宮廷内に居たら間違って殺されたかもしれません」


 この男は江東で役人を務めていたところを曹操に見いだされ、孫権から譲り受ける形で中央へ招かれたのである。


「問題は皇后の伏氏なのですよ。あの方は常に丞相の暗殺を謀っておいでだ」

 華歆は、さらりと恐るべきことを口にする。貂蝉は思わず室内を見回した。

 薄笑いを浮かべた彼は困ったように首を振る。

「もう日常茶飯事といってもいい。これは皆さんすでに周知の事実です」


「なぜ捕らえないのです。そんな危ない御方を」

 いくら皇后といえ、野放しにしておいていい筈がない。

「そこは世間知らずのお嬢さんと、その同類の取り巻き連中なのでね。これまでは手段も幼稚で、しっかり監視していれば十分だったのです」

 皇帝周辺と丞相府の間に波風を立てないのが曹操の方針でもあった。


「今は状況が変わった……という事ですか?」

 貂蝉の言葉に華歆はうなづいた。

「赤壁の戦いを経て、曹丞相与し易しと誤解した阿呆が、宮廷内に増えました」


 貂蝉も宮廷内に流れる噂を耳にしていた。

 赤壁での戦いに敗れた曹操は身一つで逃走し、その途上を劉備軍の趙雲、張飛らに待ち伏せされたというのである。

 それを辛うじて退けた曹操を、さらに関羽が待ち受けていた。その関羽に曹操は惨めに土下座し、見逃してもらったというのだ。


「あり得る話ではない」

 そんな噂が宮廷内で流布している事の方が信じられない。現に許都の民はまったく平然としている。これが正常な反応と云うべきだろう。

「だって劉備さまは長江の南に布陣しておられたはず」


 荊州南部の親曹操派を牽制するのが小勢の劉備軍の役割だった。

 その劉備が、赤壁で火計が成功したのを見計らって長江を渡り、さらに敗走する曹軍を追い越して、曹操らの逃走経路に伏兵を潜める事など出来るものではない。


「そんな話を信じているんですか、宮廷の人たちは」

 目を瞠った貂蝉に、華歆は、ふうっとため息をついた。

「頭から信じています。あの連中は自分が信じたいと思う事しか信じない」


 たとえ曹操軍が整然と退却して来たのをその目で見たとしても、決して考えを改める事はないのだろう。彼らはそこまで反曹操に凝り固まっているらしい。

「自らは正義だという妄想が、現実よりも優先されるのです」

 そのためには曹操は赤壁で惨敗していなくてはならないのだ。


「強敵ですね」

「ええ。ああいう馬鹿ほど手に負えぬものはない」

 しかし一体誰が何のためにそんな噂を流したのか。貂蝉は考え込んだが、答えは容易に出なかった。


 そこにふと、ひとりの顔が浮かんだ。それは先頃まで彼女と同行していた男だった。目的は分からないが、いかにもこんな事をやりそうな男である。


「まさか……徐庶が」


 ☆


 長江沿岸の孫権、劉備の連合軍と曹操軍との戦いは、まだ続いている。

 北岸では、襄陽とはんの両城に後退した曹操軍に対し、孫権軍の主将、周瑜しゅうゆが猛攻を掛けていた。一方南岸では、劉備が硬軟織り交ぜた戦術によって、曹操方の城を次々に陥している。


 そんな中、戦闘中に周瑜が負傷し、孫権軍は一時後退を余儀なくされた。


 戦況は未だ定まる様子は無い。

 

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