漢王朝の終焉
第57話 赤壁は燃えているか
長江の北岸は荊州の水軍に加え、曹操が新たに建造し廻漕させた船団が整然と係留されていた。塔の如き望楼を備えた超大型船の間を、連絡用の小舟がせわしなく行き交っている。
赤褐色の岩肌を見せる地形から
それは、長江の水面に突如として現れた要塞都市のようでもあった。
赤壁の対岸。長江の下流地域を江東と呼ぶ。
かつては
孫権はその孫策の弟である。彼は孫策亡き後、重臣の周瑜、張昭らを率い更なる支配圏強化を図っていた。
「劉備は孫権と合流したようだ」
曹操は地図から顔をあげた。傍らの貂蝉を見て、意味ありげな笑みを浮かべる。
「安心したか」
「はい」
貂蝉は素直に答えた。
「ですが、もう会う事はできないのでしょう」
ああ。と曹操はうなづく。
☆
歴史上「赤壁の戦い」と呼ばれる水上決戦を控え、何度か小競り合いが繰り返される。しかしその大半は曹操軍の優勢で終始した。
荊州水軍の練度は江東軍に劣るとしても、圧倒的な物量差がある限り曹操軍の勝利は揺るがないものと思われた。
貂蝉が許都へ向け出立する朝、張遼が彼女を訪ねてきた。困ったように頭を掻いている。
「おれが送って行きたいと丞相にお願いしたのだが、駄目だと怒られた」
「当り前じゃないですか。一方の大将軍が何を言っているんです」
これには貂蝉も苦笑するしかない。
「あわよくば、道中で貂蝉とあんな事やこんな事をしたいと思っていたのに。残念で仕方ない」
「下心がそのまま口に出ています」
「おお、これはいかん。では今からどうだ。まだ時間はあるのだろう?」
いそいそと服を脱ぎはじめる張遼を無視して、貂蝉は荷造りを続ける。
「おーい貂蝉。そろそろ行く……おい、張遼。何をしている」
徐庶は半裸の張遼を見て、片方の眉を吊り上げた。
「いやなに。別れ際に最後の思い出作りをと思ったが、相手にしてもらえなかったのだ。気にしないでくれ。いや、いっそ嗤ってくれ」
なんと哀れな、とつぶやいた徐庶は目頭を押さえた。
「貂蝉も罪作りな女だ」
「単に犯罪者と変態が集まって来るだけです」
それがなぜ、わたしのせいなのだ。貂蝉は慰め合う男たちを見て憮然とした。
赤壁から許都までは、ひたすら北上するのが最短距離である。
主要な街道は、曹操軍が進攻してきた襄陽を経由するものだ。これは行軍には適しているものの、やや迂回路となる。そのため貂蝉と徐庶は、間道を抜けながら直行する経路を選んだのである。
「寒くなってきたな」
北風に身を震わせ、徐庶は辺りの山を見回した。色づいた葉もすでに散ろうとしていた。間もなくこの地方にも冬が訪れる。
盤石と思われた曹操軍だったが、意外な敵が現れていた。陣営内に原因不明の疫病が蔓延し始めたのだ。患者は高熱を発し、嘔吐と下痢を繰り返した。
江東地方の風土病といわれるこの症状は、北方出身の主力軍を中心に拡がり大きな痛手を与えた。曹操は否応なく短期決戦に撃って出ざるを得なくなった。
「そろそろ、決戦が行われている頃かもしれないな」
徐庶は後方を振り返った。越えて来た山々に遮られ長江をのぞむ事は出来ないが、戦術眼に長けた曹操の事、この北風を開戦の合図としているだろう。
「ですが曹操さまの病気が心配です」
将兵の熱病だけではない。曹操はしばしば持病の頭痛で寝込むことが有った。それによって戦機を逸する事だけが不安だった。今回も貂蝉が旅立つ数日前から、体調不良の兆しを見せていたからだ。
「ああ。それに、頭痛の後は天気が荒れるとも言っておられたしな」
徐庶もふと不安な表情を見せた。
その夜、ふたりは打ち捨てられたような道観(道教寺院)に泊まった。
「野宿よりはましです」
奥まった一画は、どうにか壁が残っている。貂蝉は黙って隅に寝場所を確保する。自然を装いその横に寝ようとした徐庶は、殺意の籠った目で睨まれた。
しかたなく、穴の開いた壁の前に移動し身を縮めて横たわった。
夜半になって強い風が吹き、建物は大きく揺れた。
「倒れやしないだろうな」
徐庶は起き上がり天井を見上げる。その不安通り、腐った天井板の破片が落下してきた。一層強く風が吹き抜ける。
ふと貂蝉は気付いた。
「暖かいですね」
それまでの北風ではない。あきらかに南風と思われる生温い風だった。
「風向きが変わったのだな」
そこで徐庶はふふっと笑った。
怪訝そうな貂蝉に徐庶は手を振った。
「いやなに。いつも諸葛孔明が、自分は好きな時に風を吹かせることが出来ると言っていたのを思い出した」
「それは、吹くのは風ではなくホラだ、ということでしょうか」
「その通りだ。珍しいな、貂蝉が冗談を言うとは」
珍し過ぎて悪いことが起きなければいいが、そう言って徐庶は爆笑した。
「いや、これは……南風だと?!」
突然、徐庶の顔が緊張に引き締まった。
「冗談では収まらぬかもしれない」
徐庶は貂蝉と共に道観を駆け出した。来た道を少し戻ると小高い丘がある。その頂上で徐庶は息を呑んだ。
彼方に明るい光が見えていた。長江の方角である。
「あの赤いのは、火が燃えているのではありませんか」
その背後で貂蝉が小さく抑えた声をあげた。強い南風にのって、物の焦げた匂いすら微かに流れてくる。
「火計だ。燃えているのは恐らく、こちらの船団」
江東の将、
水軍を失った曹操は中華統一の夢を挫かれ、許都へ帰還した。稀代の戦術家、曹操にとっても、長江はあまりにも大きな障壁であった。
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