第56話 漢の都へ

 貂蝉の目の前には白い霧が立ち込めていた。

 遠くからかすかな物音が聞こえる。つられるようにその方へ歩いていくと、突然それは悲鳴へと変わった。

 ひとりの女が、数人の男によって凌辱されている。高貴な色をふんだんに使った衣裳は大きく乱れ、暴行の激しさを物語っていた。


「母さま」

 思わず声が出た。


 男たちの目がこちらに向いた。

 彼女は反射的に袖口に手をやる。しかしそこには握り慣れた短剣はなかった。

「この手は……」

 拡げた両の掌は幼い少女のものだった。まだ血に染まっていない、生まれたままの無垢な手だった。

 立上った男たちは乱暴に彼女を組み伏せ、服を引き裂き、何度も犯した。


 いつしか場面は変わり、彼女はひとりの男と寝台に伏している。男の執拗な愛撫に彼女の身体は汗にまみれ、男の注ぎ込んだものは敷布に染みを作っていた。

(はじめて、人を手に掛けたときだ……)

 養父となった王允おういんの指示で、彼女は何人もの男の命を奪ってきた。その時の記憶だった。


 霧が人の形を生み出す。

 淀んだ視線を貂蝉に向けるのは董卓とうたくだった。首に大きく開いた傷から、瘴気のようなものが漂っている。

 その分厚い唇が動き、彼女の名を呼んだ。

 貂蝉、と。


 思わず後退った貂蝉は左右から伸びた手に絡めとられた。

 右には、上半身を両断された丁原ていげんが彼女の袖を掴んでいる。そして反対側には袁術えんじゅつの半ば腐りかけた顔があった。


「我らの許に来い、貂蝉。ここは卑劣な刺客には似合いの世界だ……」

 董卓が手を差し伸べる。


「わたしは、お前たちとは違う」

 しかし周囲を包み込む霧は、どす黒く汚れていった。饐えた血の匂いが彼女の鼻腔を強く刺激する。

 董卓は嗤った。

「違うものか。そなたも儂と同じだ。見るがいい」


 彼女は自分の身体を見下ろした。

 両手は血に濡れ、露になった下腹部からは鮮血の混じった精液が滴っている。


 貂蝉は赤黒く染まった霧のなかで絶叫した。


 足元が崩れ、泥沼のように彼女を引き込んでいく。足掻く間もなく、すぐに胸元まで霧に沈んだ。

 刺すような冷気が身体を包み、呼吸すら困難になる。

「そのまま眠ってしまうがいい」

 董卓の声を聞いた時はすでに、貂蝉はどっぷりと霧の中に没していた。


 ☆


 頬に暖かいものを感じ、貂蝉は目を開いた。


 数人の男が、横たわった彼女を見下ろしている。董卓たちではない。

「曹操さま。それに、張遼……徐庶」

 彼女は曹操の陣営にいた。


「徐庶!」

 貂蝉は跳ね起きると、その顔面を平手打ちした。悲鳴をあげて徐庶はのけぞった。

「な、なんだ。いきなり。おれは助けてやったんじゃないか」

 涙目で徐庶は頬を押える。

「殺そうとした人の言う事ですか。わたしは泳げないって言ったでしょう!」


 まあまあ、と曹操が割って入る。貂蝉の前に片膝をついた。

「貂蝉どの、徐庶の乱暴は許してくれ。どうしても貂蝉どのの力を借りたいと思い、このような事をさせてもらったのだ」

 そこでふと、曹操は表情をやわらげる。

「初めてそなたと会ったのは洛陽の城門前であったな。憶えているか?」


 高級宦官の威を借り狼藉を働く者たちを止めに入ろうとして、貂蝉は曹操と出会ったのだった。当時、曹操は城内の治安を担当する西園八校尉と呼ばれる新進気鋭の将校だった。

「あの頃と少しも変わらないな、貂蝉どのは」

 曹操は貂蝉の頬に手を触れた。


 その手は暖かい。だが、

 貂蝉は意識を取り戻したとき頬に感じた暖かさを、懐かしさを込めて思い出す。


「漢の丞相さまの力になれるような事などありません」

 眉をひそめる貂蝉に、曹操は口調を改めた。


「貂蝉よ。わたしは命を狙われている。そなたには宮中に入り、その企みを阻止して欲しいのだ」


 周囲の徐庶、張遼、夏侯惇らも真剣な表情で貂蝉を見詰めている。

 冗談ではないようだった。だが貂蝉はすぐに気付いた。

「それなら首謀者を捕らえ、獄に下せば済む事ではありませんか」


「もちろん普通ならそうだ。だが今回に限りそれは出来ぬ。わたしはを手に掛けたくはないし、かと云ってむざむざ殺されて差し上げる訳にもいかないのでな」

 曹操は片頬を歪め、苦渋の笑みを浮かべる。


「あの方、と仰いましたか。曹操さま」

 漢帝国の丞相、曹操があの方と呼ぶ人物はただ一人しかいない。


 うむ。と曹操はうなづいた。

「企んでいるのは、献帝。劉協陛下なのだ」



 やがて、漢王朝最後の皇帝となる献帝。名を劉協。

 四百年に及ぶ帝国の歴史において、この皇帝ほど数奇な運命を辿った者は稀であろう。

 彼は少年の頃、袁紹らによる宦官誅戮の禍を避けるため、当時の皇帝(少帝と称される)である兄と共に宮中を脱出する。彼らを擁し洛陽に戻った董卓は、劉協を皇帝として即位させ、兄の少帝は廃したうえで無残に殺害した。

 董卓の死後は李傕りかく郭汜かくしらによる迫害を受け続ける。再び洛陽を脱した彼は曹操の庇護を受ける事になるのである。


 当初は曹操を父とも仰いだ献帝であったが、やがて何の実権も無い虚像としての皇帝位に不満を募らせる。

 かつて曹操と袁紹が対立している隙を狙い、劉備に曹操暗殺を持ち掛けたのを初め、その後も何度となく陰謀を企てているのだった。


「手口があまりにも子供騙しなので、今までは事なきを得ていた。だが万一、丞相が怪我でもされた場合は、そうも言っておられないからな」

 徐庶は言葉を切った。

「そろそろ火遊びは止めて戴かねばならん」


 曹操は貂蝉の手をとった。

「どうか協力してくれ、貂蝉どの。わたしはこの命ある限り、決してあの方を疎かにはせぬと誓おう。頼む」


「その方が、曹操さまにとっても都合がいいと云うだけではありませんか」

 皮肉な貂蝉の言葉に、曹操は破顔した。

「いやいや。まったくその通りだ。だが、それがお互いの為でもあるのだ」


 貂蝉は頷いた。他に方途みちは無いと思った。

「分かりました。許都へ御供します」


 ☆


 川岸に劉備の軍勢の姿はなかった。

 関羽たちの奮戦によって、ほとんどが長江へ逃れたらしい。殿軍をつとめた関羽も赤兎馬と共に去って行ったという。

 貂蝉は、ほっとしながらも、淋しい思いに駆られた。


「ところで、その濡れた格好では風邪をひく。いや、おれもだが」

 徐庶は自分の服の袖を絞りながら言った。彼の言う通り、二人ともずぶ濡れのままだった。

「あの陣幕の中に着替えが用意してある。まずはこの冷えた身体を温めようではないか。知っているか、それには人肌が一番だと云う……おうっ?!」

 貂蝉の足払いで、徐庶は一回転して地面に倒れた。


「ひとりで結構です。ついて来ないで下さい!」

 貂蝉は、いちど川面に目をやったあと、曹操の陣営へと向かった。


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