第55話 江上での告白

 関羽を背に乗せた赤兎馬は大きくいなないた。それは歓喜の歌声であり、戦闘開始を告げる悪鬼の雄叫びでもある。


 ふふっと満足げな笑みを浮かべた関羽は、手にした偃月青龍刀を握り直し馬腹を蹴った。敵陣に駆け込み、青龍刀が一閃するたびに、関羽の周囲に鮮血の花が咲いた。

 

 貂蝉が乗った平底船は岸を離れ、川の中流に停泊している巨船へ向かう。振り返ると、関羽、張飛ら劉備軍の将たちが、曹操軍を突き崩しては退き、崩しては退きながら、船による脱出を支援している。

 この大量の船は、先に襄陽を離れた諸葛孔明と関羽が事前にかき集め、それを亡き劉表の長子、劉琦が指揮をとっていた。


 船べりから下げられた梯子を昇り、貂蝉は大船の甲板に立った。この船には主に文官や、将兵の家族の女性たちが多く乗っているようだった。

 糜夫人と甘夫人の事を想い、貂蝉は暫く目を閉じた。



「おーい。そこにいるのは貂蝉じゃないか」

 どこからか彼女を呼ぶ声がする。見回すと帆柱に誰か縛り付けられていた。

「徐庶さま。何をやっておられるのです」

 後ろ手に縛られた徐庶が、柱の根元に座り込んでいる。

 いつか見たような光景だった。また処刑されようとしているのだろうか。


「ちょっと意見の相違があったんだ。すまないが、この縄を切ってくれないか」

「いやです」

 面倒事に巻き込まれるのは目に見えている。


「そう言うな。これはお前にとっても、決して悪い話ではないはずだ」

 真剣な徐庶の表情に、貂蝉は傍らにしゃがみ込んだ。

「聞くだけは聞いてみましょう」


 うん。徐庶はひとつ頷く。

「お前のその平らな胸が大きくなるとしたら、どうだ」

「本当に殺しますよ」

 貂蝉は袖口の短剣に手をかけた。


「まあ、冗談はさておき」

「あなた方は、まず冗談を言わないと本題に入れないんですか」

 男というやつは皆こうなのか。それとも、自分の周辺だけだろうか。貂蝉は立ち上がると腰に両手をあて、徐庶を睨んだ。


「そもそも、何故こんな事になっているんです」

 ただ意見の相違だけで、縛られたりはしないだろう。

「うむ。話せば長くなるのだが」

「ならいいです」

「待ってくれ、貂蝉。話す、話すからっ!」


 縄を切ってやると、徐庶は手首を撫でながら大きく息をついた。

「助かったよ、貂蝉」

「なんだか以前にも、こんな事があったような気がしますけど。もしかして、また罪を犯したんですか」

 また、とか言うな。徐庶は真剣な表情で貂蝉の顔を見た。


「なあ貂蝉。お前、献帝の縁者なのだろう?」


 ☆


 急に貂蝉の背後に沸き上がった殺気に、徐庶は思わず冷や汗を流した。

「なんのことでしょうか。心当たりがありません」

 全くの無表情で貂蝉は答える。


「嘘を吐け。なんだその殺気は。それに、そんな危ないモノはしまってくれ」

 初めて気付いたように、貂蝉は袖口に目をやった。薄刃の短剣はすでに右手に握られている。小首をかしげ、貂蝉は片方の口角を上げた。

「でもこの剣は一度抜くと、血を吸うまで鞘に戻りませんが」

「全然、冗談に思えないぞ」


 ふうっとため息をついた貂蝉は短剣をしまい込んだ。

「なぜそれを?」


「曹丞相は董卓が殺害された事件をずっと調べていたのだ。そして、奴の暗殺には女が絡んでいる事を突き止めた。その女は献帝の縁者であることもな。……殺ったのはお前だな、貂蝉」


 貂蝉はじっと徐庶を見詰める。

「徐庶さま。あなたは最初からそれを知っていたのですか」

「まさかとは思っていたが。だが、行を共にすることで確信した。洛陽で、何人もの不逞官吏を誅殺したのもお前なのだろう」


 うなづく貂蝉。

「ですが、それを今更どうしようと云うのです。その中にあなたの家族でも?」

 いや、と徐庶は首を横に振った。

「協力して欲しいのだ、貂蝉」


「それは曹操さまに、ですか」

 しばらく考え込んだ貂蝉は、徐庶の目を見詰める。

「……そうだ」

 徐庶は一瞬だけ動揺が走ったようにも見えたが、すぐにそれを紛らすように肩をすくめた。


「おれは今、曹丞相の間諜として働いているのだ」

 

 ☆


「ちょっと格好いい台詞でしたが。ならば、なぜ縛られていたんです」

「あ、ああ。それは、まあ、あれだな……、ちょっとな」

 ははは、と笑って誤魔化す。


「要するに身元が知られたんですね」

「はい」

 孔明のやつ、意外と鋭くてね。徐庶は小声でぼやいた。


「で、貂蝉どのには、一緒に許都まで来て欲しい」

「なぜです」

 冷たい声で貂蝉は返す。

「会いたいのだろう。献帝、劉協に?」


「……!?」

 言葉を失った貂蝉に、さりげなく徐庶は体を寄せた。まったくの予備動作なしに彼女のみぞおちへ当身を食わせる。普段の徐庶からは想像できない、訓練された鋭い動きだった。


「なんのつもりです」

 だが、その拳は貂蝉の繊手によって受け止められていた。ぎりっと握りしめられ、徐庶は顔を強張らせた。これも想像以上の握力だった。

「事と次第によっては、ただでは置きませんよ」

 貂蝉は怜悧な表情を変えず、静かに言った。



 うーん、仕方ない。徐庶は唸ると、体勢を低くした。片手を貂蝉の膝裏に宛がうとそのまま抱き上げた。

「あ、あ、あの、なにを?!」

「思ったより重いな。貂蝉は意外と着痩せするのだな」

「おのれ」


 徐庶は貂蝉を抱えたまま船べりに歩み寄る。川風が髪を揺らした。


「あの、徐庶さま。何をなさるつもりです」

「とりあえず、ここから逃げ出す」

 そう言うと舷側に足をかける。それに気付いた貂蝉は、足をばたつかせ身をよじるが、しっかりと抱きすくめられ動けない。


「徐庶さま。わたしは……っ!」

 腕に貂蝉を抱えたまま、徐庶は舷側から身を躍らせた。


「わたしは泳げないんですっっ!!」

 かん高い悲鳴と共に、長江の水面に高い水柱があがった。


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