第54話 遥かなる長江の岸辺にて

 これほどの大河を見るのは、貂蝉にとって初めてだった。

「対岸があんなに遠いなんて」

 目をこらすと水平線の彼方に大地が霞んでいる。これが北方の黄河と並び、中華大陸を三分する長江である。


「よし。では服を脱ぐのだ、貂蝉どの」

 一時はひどく落ち込んでいたが、ここに来て劉備はまた、謎の明るさを取り戻している。

「それは……なぜです」

 距離をとり、胡散臭そうに貂蝉は問いかけた。


「だって、服を着たままでは泳ぎにくいだろう。南岸までは遠いぞ」

「泳いで渡るのですか?!」

 ぐふふ、と隣で簡雍かんようがいやらしい笑い声をあげた。この男は劉備の古くからの親友で、劉備に輪をかけた変質者である。


 そこで貂蝉はからかわれた事に気付いた。

「もう。冗談はお止め下さい」

 後方からは曹操軍が迫って来ているのだ。


「そんなに心配することはない」

 飄々と簡雍は天を仰ぐ。折しも東からの強風が吹き、雲が流されている。

「行雲流水。このように天と水に挟まれた場におると、人は媾合まぐわいたくなるものだ。そなたもそうだろう、貂蝉どの」

「まぐわう、とは?」

 貂蝉は首をかしげた。

 これだよ、と簡雍は左手の指で丸をつくり、右の指でその行為を表してみせる。


 貂蝉は何も言わず、簡雍を川に蹴り落とした。



「ひどい女だな。だが、それも嫌いじゃないぞ」

 ずぶ濡れで川から上がった簡雍は、親指を立て、妙に爽やかな笑みを浮かべた。

「さすが簡雍。ひと際、男前があがったではないか」

「ぐふふ。ここから『水もしたたる良い男』という故事成語が生まれるのだろうな。いやあ、色男はつらいなぁ、劉備よぅ」

 本当だのう、と劉備と簡雍は大声で笑い合っている。


 ☆


「バカを言っている場合ではないぞ、兄者!」

 後方から張飛が駆け戻ってきた。

「曹操軍の奴らがやって来たのだ。だがあれは、おれにも手に負えん」

「なに、そんな精鋭を引き連れて来ておったのか、曹操は」

 劉備は立ち上がった。いつものように、すでに逃げ腰になっている。


「とにかく見てみろ!」

 貂蝉は劉備たちと共に、最後方まで下がっていった。



「ああ、これは確かに手が出せませんね」

「なあ貂蝉。お前もそう思うだろう」

 ぐぬぬ。と張飛は牙を剥き、唇を噛んだ。


 曹操軍の最前列は、が横一列に隊列を組み、じわじわと迫ってきていた。

「あのようなものを軍に用いるとは。曹操め、血も涙もないと見える」

 劉備も拳を握りしめて呻いた。


 白、黒、三毛。様々な模様のネコが、にゃうにゃう鳴きながら整然と進んで来ているのだ。これはいっそ壮観と言えた。

「これが、かの有名な虎豹騎こひょうきか!」


「さあ、劉備軍のみなさん。早く降参しないと、この子たちをけしかけますよー」

 ネコ部隊の後方を進む若い男が、愉し気に呼び掛けた。この虎豹騎の隊長、曹純である。

「それとも、まさかこのネコたちを斬るとでも?」

 くくく、と笑う曹純。


「そんな事は、おれには出来ん」

 がっくりと膝をつく張飛。手にした矛まで投げ出した。

「さあ、殺せ!」


「落ち着いて、張飛。相手はネコなんだから、方法はあります」

 貂蝉は張飛の兜を脱がせ、四つん這いにさせた。

「さあ、威嚇して。いいですか、目を逸らした方が負けですよ」

 ぴっ、と迫り来るネコ軍団を指差す。

 えへん、えへん、と咳払いした張飛は、くわっと大口を開けた。


 にゃーううう! ふぎゃうう!


 その声を聞いたネコの進軍が止まった。明らかに怯えの色が見える。

「にゃうっ!」

 張飛が右手を前に払った。

 すざざざ、とネコたちの腰がひけていく。

 さらに張飛が二、三歩前に飛び出すと、一斉にネコたちは逃げ出した。

 後には曹純だけが残される。


「あれ。……えーと。じゃ、そういう事で」

 曹純も片手をあげて、ネコたちの後を追った。


「なんだ、口ほどにもない連中だったな」

「よしよし、よくやった」

 貂蝉に頭を撫でられ、張飛はごろごろ、と喉を鳴らした。


 

「お遊びはそこまでだ、劉備」

 曹操を先頭に、今度こそ本隊が現れた。左右に夏侯惇と許褚を従え、威風堂々と馬を進めて来る。


 遊んでいたのは、そっちだろう。劉備は口を尖らせながらも、曹操と対峙するように前に出た。

「これは曹丞相。かような所までお見送り、感謝いたしますぞ」

 

「相変わらず口の減らぬ御仁だな、劉左将軍よ。このわたしを裏切っておいて、ただで済むとは思っていないだろう。もちろん死ぬ覚悟は出来ておろうな」

 周囲の空気が一瞬で凍り付いた。


「ふむ、ケツの穴を洗って待っておれ、という事ですかな、丞相」

「首だ、洗うのは! そこの長江の水で首を洗っておけと言っておるのだっ!!」


「怒らせてどうするんですか」

 後ろから貂蝉が劉備をつつく。振り返った劉備は苦笑いを浮かべ肩をすくめた。

「やれやれ。冗談が分からん男だのう、曹操は」

「こんな場面で冗談を言える神経の方が理解できません!」

 もはや絶体絶命の危機が迫っている。



 じわじわと劉備たちは川岸に追い詰められていく。東からの風が一層強くなり、砂塵が舞いあがった。

 その時、遠くから物のきしむような音が響いた。

「何の音だ」

 貂蝉は耳をすました。それは次第に近づいて来る。


 対峙する曹操軍の中にどよめきが広がった。

 振り返った貂蝉は、長江の中ほどに一群の艦隊が進んで来るのを見た。その船首には、朱面長髯の武将が偃月青龍刀を手に立っている。

「関羽将軍!」

 

 それを見た曹操の目の色が変わった。

「おお、関羽じゃ関羽じゃ。見ろ夏侯惇、わたしの関羽が、この胸に飛び込もうとやって来るぞ」

「そういう状況か。すごい殺気を感じるぞ」


 関羽の乗る船は底が平らになった、いわゆる上陸用舟艇である。そのまま浅瀬に乗り上げると、劉備と合流し防御陣形を造り上げる。

「さあ早く船へ」

 劉備たちを船に乗せ、長江の中ほどで待つ大船へと移送を始めた。


「関羽さま」

「おお、貂蝉どの。無事でよかった」

 関羽は少しだけ表情を緩めると、船に行くよう貂蝉を促す。そして徒歩かちのまま最前線へ駆けて行った。



 貂蝉は傍らの赤兎馬を見上げる。

「赤兎」

 赤兎馬は貂蝉の頬に何度も顔を擦りつけた。そして彼女をじっと見つめた。赤兎は別れを告げているのだ、貂蝉には分かった。


「行きなさい、赤兎。関羽さまを護ってあげて」

 ぶるる、と鼻を鳴らし、赤兎馬は関羽を追って走り出した。


 赤兎馬に騎乗した関羽は神々しいまでの威光を放っていた。それは天上の武神がこの世に降臨したかのようだ。


 貂蝉は指で涙を拭うと、河岸の船に向かった。



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