第53話 貂蝉、曹操軍を突破する

 曹操は行軍速度を落とし、先行する部隊と合流した。


「街道が塞がれてるみたいですよ。これにそう書いてあります」

 虎豹騎こひょうきを率いる曹純は、情報を伝えて来たネコを曹操の前に差し出した。首輪に通信用の手紙が仕込んであるのだ。

「分かった。分かったから、それを近付けるな」

 曹操は何度もくしゃみをしながら後ずさる。彼はひどい猫アレルギーだった。


「何、張飛がいて橋が渡れないだと」

 夏侯惇は曹純から受け取った手紙を読み、呆れたように言った。

「こちらの兵力は奴らの何倍あると思っているのだ。一気に揉み潰せばよかろう」

「はあ、それが」

 曹純は首をひねった。

「最初に攻め掛かった于禁将軍の隊は、一瞬で壊滅したそうで」

 ぐぐ、と夏侯惇は唸る。今は張飛の矛先から逃れるよう、遠巻きに布陣しているという。


 その時、陣の後方で悲鳴のような声があがった。

「今度はなんだ?!」

 日頃は温厚な夏侯惇もさすがに苛立っていた。荒々しく怒鳴ると剣の柄に手をかけた。

「後方から敵襲です!」

 駆け込んだ伝令が叫んだ。


「劉備め。やはり伏兵を置いていたか」

 曹操は驚いた様子もなく頷いた。前方の張飛に全軍の意識を集中させ、その隙に後方を襲う。これは兵法の常道と云えた。


「どうやら劉備が新しく迎えた軍師は、人並み程度の才はあるようだな」

 それでなくては面白くない。曹操は迎撃の指揮を執るため颯爽と立ち上がった。

「それで、敵の兵数は」


 しかし、これは訊くまでもない。おそらく数百騎。そして率いているのは関羽だろう。彼が劉備の集団とは別行動をとっている事は既に分かっている。曹操は関羽との再会を想い頬を緩ませた。


「敵の兵数は……三騎です」

 伝令の報告に曹操は満足げに頷く。そして得意げに夏侯惇を見やった。

「なるほど三百か。想像通りだな、夏侯惇」

「……」

 夏侯惇は曹操と伝令の顔を交互に見た。


「いや。おれの聞き間違いかな。三騎、と言わなかったか?」

「何を言っているのだ、夏侯惇。だから三びゃく……と、おい、何だと。伝令、もう一度報告せい!」

「ですから、三騎でございます」

 曹操はしばらく口を開けたままだった。


 ☆


「途を開けろ、無駄な殺生はしない」

 趙雲は大声で叫びながら疾走している。それでも無謀にも立ち向かってくる兵は、容赦なく剛槍を一閃させ排除する。

 後続の貂蝉を横合いから狙うものは、素早く陳到が突き伏せる。僥倖にもその槍先を逃れたものは、怒れる赤兎の馬蹄に踏みつぶされた。


「あれは化け物だ」

 趙雲たちが曹操軍の半ばまで達した頃には、もはや誰もあえて彼らに立ち向かおうとするものは居なかった。

 だが曹操の本陣から、ただ一騎、驚くほどの巨漢が躍り出た。


「このまま通しては曹軍の名折れだ。止まれ、貴様ら!」

 吼えたのは親衛隊長の許褚きょちょだった。


「くっ、虎痴こちか」

 趙雲は槍を握り直した。虎痴とはこの巨漢の綽名である。普段ぼんやりとした表情のため、一見すると痴愚に思えるからである。

 しかし曹操から最も篤い信頼を得ているこの男の忠誠は類を見ない。自らの命を顧みる事の無い戦い振りは、多くの戦場で曹操の危機を救っている。


 趙雲は鋭く槍を繰り出す。だが許褚は巨体に似合わない素早さでその攻撃をかわした。逆に横殴りに矛の柄を叩きつけられ、趙雲は馬上で大きく態勢を崩した。

「まずい、右腕が……」

 激痛で肘から先の感覚が無くなっていた。先に張遼と渡り合い負傷していた箇所だった。


「下がれ、趙雲!」

 代わって陳到が前面に立つ。

 許褚の矛がすぐに彼の胸板を狙って伸びた。それを身をよじって躱しつつ、逆に陳到の槍は許褚の肩口を襲う。


 手応えがあり、血飛沫があがる。許褚は顔を歪めその槍の柄を掴んだ。

「おのれ」

 許褚はそのまま槍の柄を片手でへし折った。

「何だと!」

 舌打ちした陳到はすぐに剣を抜き放つ。


 そこで許褚は、趙雲をかばって脱出しようとする貂蝉に気付いた。

「逃がすか!」

 すぐさま馬を返し、矛を貂蝉の背中に向けて叩きつける。

 凄まじい殺気を感じて振り向いた貂蝉の顔が、絶望に凍り付いた。


 だが、その矛は彼女の身体に触れる寸前に止まる。すっと矛を引いた許褚は不思議気に首を傾げた。

「お前、女か。それに抱えているのは赤ん坊ではないか」

 許褚の殺気が急速に消えていく。


「と、いう事だ。ここを通してくれ」

 陳到がすかさず、許褚と貂蝉の間へ馬で割り込む。

「許褚どのは粗雑だが、女子供に手をかける方ではないと聞いている」

「粗雑は余計だ」

 ふーん、と許褚は、改めて陳到と貂蝉を見た。やがて矛の刃先に視線を移す。


「やれやれ、矛が刃こぼれしてしまった。これは鍛冶屋に持ち込んで打ち直さねばならん」

 そこで許褚は顔をあげた。

「では、この続きはそれからだ」

 

 ☆


「張飛どの、通してくれ!」

 長坂橋の前に陣取る張飛に、趙雲が叫ぶ。張飛は矛を高く掲げた。だが彼らがただ三騎のみであるのを見て、すぐに表情を翳らせた。

「駄目だったのか」


 貂蝉は胸に抱いた赤子を張飛に示した。

「甘夫人のお子です」

「なんと」

 大きな瞳からぼろぼろと涙をこぼし、張飛は絶句した。


「あとは任せろ。早く行け」

 涙を拭い、張飛は矛で後方を指し示した。




 貂蝉たちを迎えた劉備は苦い表情を崩さなかった。赤ん坊を抱き取ったものの、その子と傷だらけの趙雲を何度も見比べている。

 徐々に厳しい顔になった劉備は、不意にその子を頭上に差し上げた。


「許せ趙雲。このような者のために、大事なそなたに大怪我をさせてしまった」

 そして赤ん坊を地に投げ捨てようとする。趙雲と陳到は思わず声をあげた。


「待て、この馬鹿!」

 劉備の腕から赤子を奪い取ったのは貂蝉だった。しっかりとその子を胸に抱き、右足の蹴りが劉備の顔面に炸裂している。


 貂蝉はその子を趙雲に預けると、顔を押えうずくまる劉備の胸倉を掴んだ。

「どういうつもりです。事と次第によっては許しません」

「まず話を聞け、貂蝉」

 顔にくっきりとくつの痕をつけた劉備は涙目で訴えた。


「あれは、わしの子ではない」

 辺りに聞こえない程の小声で劉備は囁く。

「はあ?」

 貂蝉の目が鋭く細められた。

「わしは、子を成すことが出来ないのだ」


 劉備の言葉に、貂蝉は息を呑んだ。最初にあの子を見た時の違和感が脳裏に甦る。あの赤ん坊には劉備の余りにも特徴的な部分が無かったのだ。それは異様なまでに長い両腕であり、肩に届くほどの耳朶である。


 後の事になるが、この赤ん坊、後の劉禅がいるにも関わらず、劉備は荊州の豪族、冦氏から養子を迎えた。更に臨終の際には諸葛亮に国を譲ってもいいとまで言っている。これは、劉禅に対し含むところがあると思われても仕方がないだろう。



「ですが……、ですが」

 貂蝉は言葉を詰まらせた。涙がとめどなく溢れた。

「あの子は甘夫人が命を懸けて産み、守られたのです。甘夫人のお子なのです」


 暗い目で赤子を見詰めていた劉備はため息を吐き、乳母を探せと命じた。



 逃亡を続ける劉備一行の前に、滔々たる大河が姿を現した。渡し場に船は一隻も係留されていない。

「これは、窮したのではないか」

 貂蝉は後方を振り返った。そこには曹操軍の巻き上げる砂煙が高く舞い上がっている。


 強い風が東から吹き抜け、長江の水面を揺らした。



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