第52話 趙雲と陳到、長坂坡を疾駆する

 逃げ惑う群衆を踏みつぶす勢いで曹操軍の先鋒が迫って来る。その数は先程の張遼の部隊の比ではない。

「無体なことをする」

 振り向いた貂蝉は敵の陣中に目を凝らした。


 そこには『于』の旗が掲げられており、于禁の軍である事を示していた。

 この于禁は、先の合戦で火計によって潰走を余儀なくされ、雪辱に逸っているのだったが、貂蝉がそれを知る由もなかった。


 群衆の間を縫うように赤兎馬は走る。曹操軍への恐怖にかられた人々も、赤兎馬を見ると自然に道をあけた。

 だがその後ろから、明らかに貂蝉を狙って矢が飛来する。

「どうやら、わたしたちは目立ちすぎるようだ」

 貂蝉は苦笑して赤兎馬の首筋を撫でた。


 彼方に古い小屋が数軒建ち並ぶのが見えた。

 その横に一台の馬車が横転している。

「あれは」

 糜夫人と甘夫人が乗っていた馬車ではないだろうか。


「赤兎、あの馬車の所へ」

 貂蝉は手綱を引いたが、赤兎馬はそれに従わなかった。断固として前を向き、戦場を抜け出そうと走る。

「待って、赤兎。言う事をきいて」


 貂蝉の傍らを次々と矢が掠めていく。

 いかに赤兎が名馬とはいえ、貂蝉の馬を御す技術は歴戦の武将に遠く及ばない。後続の曹操軍との距離は徐々に縮まっていた。

 赤兎馬は貂蝉に逆らってでも、彼女を護ろうとしているのだった。



 平原を断ち切るようにやや大きな川が流れ、街道には一本の橋が架かっていた。

 それを塞ぐように部隊を展開し、張飛が立ちはだかっていた。馬上、長大な矛を横たえ、迫り来る曹操軍を睨み据えている。


「張飛将軍!」

「おう貂蝉。無事で何よりだ」

 張飛は豪快に笑った。


「糜夫人と甘夫人は通られましたか」

 涙をこぼす貂蝉を見て、張飛は困惑した表情を浮かべた。

「いや、おれは見ていない。先に行かれたのかもしれんな。後は任せて、お前は長兄と合流しろ」

 貂蝉は頷くと全力で劉備を追った。



 劉備の本隊はやや速度を落としていた。いかに焦ろうと、そろそろ馬の方が限界を迎えているのだ。追いついた貂蝉は二人の夫人の行方を尋ねて回るが、誰も一様に首を横に振った。

 貂蝉に殺意に満ちた目で睨みつけられた劉備は、そっと顔をそむける。


「夫人の車を見たというのは本当か、貂蝉」


 小隊を率いて合流してきたのは趙雲だった。白銀の鎧が汚れているのは敵の返り血だけではなかった。追撃してきた張遼と闘い、辛うじて撃退したところだったのである。


「ならば、お迎えに行かねばならないな」

 影のように趙雲の横に並んだ黒鎧の騎士が平然と呟いた。この陳到は劉備軍の中でも最古参のひとりだが、少年の頃から劉備に付き従っているため、まだ趙雲と同年代だった。

 趙雲と陳到は常に馬を並べて功を競いあい、『ともに甲乙つけがたし』というのが周囲の評である。


「俺が行く。後は頼むぞ陳到」

 ひとり駆け出そうとする趙雲の頭を、陳到は槍の柄で殴りつけた。趙雲は馬上でよろめいたが危うく踏みとどまる。


「何をする、陳到!」

「怪我人は下がってろ、おれが行く」

 頭を押さえて怒鳴る趙雲に対し、あくまでも冷静に陳到は言う。


「お前、その怪我人を本気で殴っただろう」

「あれしきの事で。それこそ、お主が弱っている証拠ではないか」

「なにおぅ」


「わたしも行きます」

 二人の若い武将はその声に振り向いた。赤兎馬に跨った貂蝉だった。しかし、と言いかけた趙雲だったが、貂蝉に気圧され口をつぐんだ。

「場所を知っているのは、わたしだけです」

 趙雲と陳到は顔を見合わせ、頷いた。

「よし。案内してくれ」


 貂蝉たちは来た道を駆け戻っていき、すぐに張飛が立ちはだかる橋に到達した。

「なんだ、逃げたのではなかったのか」

 張飛は怪訝そうに道をあけた。彼方に砂煙があがっている。曹操軍の襲来まで、もうそんなに時間はない。

「ああ。糜夫人と甘夫人が、はぐれてしまわれたので……」

 趙雲は少し言い淀んだ。


「やはりそうだったか。だが、兄者はそれを命じたのか」

 張飛の言葉に、趙雲と陳到も困惑の表情を浮かべた。兄者にも困ったものだ、張飛は頷き、顎をしゃくった。

「行け、そして必ず帰って来い」


 ☆


 貂蝉は目を瞠った。趙雲と陳到、この二人の戦い振りを間近で見るのは初めてだったからだ。彼らは単騎でも関羽、張飛に匹敵するほどの技量を持っているというのは知っていた。

 だが、彼らが連携したとき、その戦闘力は数段上がったように思える。壁のようにひしめく曹操軍の先鋒を易々と突破し、その背後に抜ける。


 一方、その二人も貂蝉の剣技には驚いた表情になった。見事に無駄のない動きで鋭い剣さばきを見せている。ただやたらと長剣を振り回すだけの兵など、鎧袖一触、まったく相手にしない。


「どうだ、お前なら勝てるか。陳到」

 趙雲はちらりと後方に目をやって悪戯っぽく笑う。陳到は槍をふるいながら器用に肩をすくめた。

「もし戦う機会があったら、趙雲に譲ってやる」

 言いつつ、前方の敵兵を二人纏めて串刺しにしている。

 屍体の山を築き続ける彼らを追って来るものは、もはや居なかった。


「あの小屋です!」

 貂蝉は指さした。あの建物の並びは見覚えがある。その陰に夫人たちの乗った車が横転していたのだ。

 駆け寄ると、変わらず車は残されていた。


 その中を覗き込んだ陳到は片膝をつき項垂れた。

「うっ……」

 貂蝉も言葉を失った。身体に何本もの矢を受け、糜夫人は絶命していた。


「これは」

 しゃがみ込んだ趙雲が何かを見つけた。地面に向け、目をこらす。

「血の跡だ、小屋へ続いている」



 古い小屋の片隅で甘夫人もこと切れていた。重傷を負った身で、這うようにしてここまで逃れて来たのだろう。

 三人はしばらく瞑目した。


 かすかな泣き声がどこからか聞こえて来た。気付いた貂蝉は甘夫人の傍らにしゃがむと、二人の男を振り返る。

「ちょっと外して頂けますか」


 訝し気な顔の趙雲と陳到を追い出すと、貂蝉は甘夫人の腕をそっと持ち上げた。身体を丸めた甘夫人は、大きく拡がった袖でそれを護るように覆っていたのだと気付く。甘夫人の胸には、生まれたばかりの赤ん坊が抱かれていた。

 貂蝉は涙を拭い、その子を取り上げた。


「何をしている貂蝉。曹操の後続部隊が来るぞ」

 中に入ってきた趙雲は貂蝉が抱いた嬰児に目をとめた。その子は、すでに小屋のなかで集めた布にくるまれている。

「その赤ん坊は、もしや」

 貂蝉は甘夫人の遺体に目をやり、小さく頷く。


 陳到は糜夫人を抱え、甘夫人と共に小屋の奥に安置した。

「今はお連れする事はできない。許して下さい」

 三人は悲運の両夫人のために涙を流した。

 


「では、行こうか」

 赤ん坊は貂蝉が抱き、赤兎馬に騎乗する。そしてその前後を趙雲と陳到が挟んだ。


 三人は再び劉備を追って、曹操軍の中へ突入していった。

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