第51話 張遼の急襲

 襄陽を脱した貂蝉と徐庶は、街道の彼方に一軍の姿を見つけた。


 おそらく、劉備たちは強大な曹操軍に追われ惨めに潰走して来るだろう、という貂蝉の懸念は意外な形で裏切られた。

 張飛を先頭に、趙雲と陳到を左右に従えた陣形で実に整然と退却して来たのである。しかも陣中には白の喪章まで掲げている。これは亡き劉表を悼むためであるのは言うまでもない。


「奴らの鼻先を軽く殴りつけただけだ。すぐに追って来る」

 馬上の張飛は愉しそうに笑った。

 たしかに先鋒の于禁の部隊こそ多少の被害を与えたが、曹操軍全体からすれば、微々たるものだ。途中に何ケ所か同じような罠を仕掛けてはあるが、ほんの時間稼ぎにしかならないだろう。

 張飛は並走する趙雲に命じ、ふたりを劉備の許へ案内させた。


「よく来てくれた、徐庶。孔明と共にわしを支えてくれ。頼むぞ」

 劉備は馬を進めながら徐庶の手を握った。

 そして貂蝉の方を振り向き、頭を下げる。

「こうして移動中でなければ、抱きしめて歓迎して差し上げるのだが。無礼を許して下されよ」

「いえ。それ以上に無礼なことはありませんから大丈夫です」

「おや、そうかのう」

 どうやら自分では分かっていないようだ。



 襄陽への入城を拒まれた劉備はそのまま足を郊外に向け、亡き劉表の墓前に額づく。そこで、身も世も無く泣き崩れ、滂沱の涙を流した。

 集まった群衆の前で、こういった事を何の嫌味もなく出来るのが劉備である。

「これは一種の才能だな」

 ため息まじりに徐庶が呟いた。


 ☆


 その所為だけでは無いだろうが、襄陽を離れて行こうとする劉備の一行の後ろに続々と民衆が付き従い始めた。

 多くの人々が荊州の行く末に見切りを付けた結果だった。


「困ったのう。こんなに大勢の民を護りながら行軍は出来ないぞ」

 どうしても劉備さまについて行きます、と口々に訴える民衆を前に、悲痛な顔で劉備は嘆いた。


「こんなに多くの民が慕ってくれておるのに、わしはなんと無力なのだ」

 大声で泣く劉備に、民衆ももらい泣きしている。


「では、そろそろ行きますか、劉備さま」

 何食わぬ顔で孔明が袖を引く。その場から離れ、人々に背を向けた二人は互いに悪い顔でほくそ笑んだ。


「昔より『人は石垣、人は城』と申しますから、いっそこれは好都合です」

「分かっておるとも。しかし孔明。そなた見掛けによらずワルよのう」

「ほっほっ。それを劉備さまが仰いますか」


 うははは、と急に笑い出した二人を、人々は怪訝そうに見た。


 計算通り、民衆を曹操への盾として使いながら劉備たちは東へ向かう。目的地は長江沿いの重要な軍事拠点、江陵こうりょうである。



 軍の後方、夫人たちの車の横を貂蝉は進んでいた。しきりと辺りを見回す彼女に、甘夫人が声を掛ける。

「どなたかお探しですか、貂蝉さま」

「ええ。関羽さまの姿が見えないのですが」

 劉備の周辺は張飛や趙雲らが警固していたが、その中に立派な髯を持つ武将の姿は無かった気がする。


「関羽さま、ですか」

 甘夫人は糜夫人と顔を見合わせて、首を捻った。彼女たちもそれには気付いていなかったようだ。

「そう言えばお見かけしませんね」


 貂蝉は赤兎馬の首筋を撫でた。

「会えなくて残念だったな、赤兎」

 その時、後方の群衆のざわめきが伝わってきた。


 貂蝉の耳に風の音が鳴った。


 矢羽根の唸りだ。音の正体を理解するより先に、貂蝉は頭を下げ赤兎馬のたてがみに顔を伏せた。そのすぐ上の空間をやじりが切り裂いていく。

 小さくひとつ息をついた貂蝉だったが、矢鳴りはなおも続く。


 突然、疾走する赤兎馬が方向を変えた。必死でしがみつく貂蝉の身体を征矢そやが何本も掠めていった。

「赤兎?!」

 しっかり掴まっていろ、という様に赤兎馬が鼻を鳴らす。


 振り向くと、後方の民衆が大きく乱れ、その中を騎馬隊が突進してくるのが見えた。

「曹操軍が来た」

 貂蝉は唇を噛んだ。

 

 ☆


 貂蝉は細身の剣を振るいながら、前方を行く劉備の本隊を睨んだ。騎馬中心の本隊と違い、馬車や荷駄によるこの集団は徐々に置いて行かれている。

「まさか見捨てる気なのか」

 糜夫人と甘夫人の諦めたような笑顔が頭に浮かんだ。今更ながら、あの表情の意味が分かった気がした。

 

「そこにいるのは貂蝉ではないか」

 後方に迫る追手から声が掛けられた。聞き覚えのある声に貂蝉は振り向く。

「張遼!」

 かつて貂蝉や呂布と共に戦って来た張遼だった。若い精悍な顔に驚きの表情を浮かべている。


「よかった。赤兎馬も元気そうだな」

 張遼は攻撃を止めさせると、貂蝉に馬を寄せた。

「まさかこんな所で会うとは思ってもいなかったぞ。どうした。劉備の側室にでもなったのか」

「冗談はやめて下さい」

「ははは、そう怒るな。ところで、あの車はもしや劉備の夫人が乗っているのか」

 貂蝉は口をつぐんだ。その表情をみた張遼はふーん、と唸った。


「そうか。おい、手前ら」

 張遼は配下の騎兵に指示を下す。

「こんな所で、もたもたしてる場合じゃないぞ。劉備を追え!」

 駿馬で編成された張遼麾下の部隊は、もはや馬車には目もくれず、劉備を追って駆け出した。


「待って、張遼」

 貂蝉が呼び掛けると、振り向いた張遼は目を細めた。

「なぜ見逃してくれるんです」

 真剣な顔の貂蝉に、張遼は苦笑いした。


「ああ。おれは女を捕虜にする趣味は無いからな」

 そこで張遼は小さく唸り、天を仰いだ。


「それより貂蝉。今日この場で、とは言わん。……おれの嫁にならないか」

 思わぬ告白に貂蝉はうろたえた。

「あ、あ、その。……こ、こんな場所で何を言ってるんです。冗談はやめて下さい」


「おれは本気だ、……うおっ」

 危うく赤兎馬に咬みつかれそうになり、張遼は身をそらした。赤兎馬はまだ鼻息荒く張遼を睨みつけている。

「ちっ、馬のくせに嫉妬してるのか」

 張遼は舌打ちした。


「では、考えておいてくれ」

 そう言うと張遼は、片手をあげて走り去る。

 立ち止まった赤兎馬の横を群衆が追い越していき、すぐにその背中は見えなくなった。


「なぜこんな時に」

 張遼……。茫然と貂蝉はつぶやいた。


「でも、今は生き延びることだ」

 何度か頭を振って、貂蝉は赤兎馬を走らせた。


 ☆


 やがて街道は長坂坡という開けた場所に出る。逃げ惑う民衆を蹴散らすように、その後ろから遂に曹操の本隊が姿を現した。




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