第50話 貂蝉と赤兎馬の旅立ち
劉表の死去は想定されていたが、はからずも蔡夫人まで殺害されたことで、襄陽城内は混乱の極みとなっていた。
蔡瑁とその一族である張允は、腑抜けのようになっている劉琮を叱咤し太守の座に就ける。しかしこの男はおどおどと、居並ぶ諸官を見回すだけだった。
「荊州は曹丞相に従う事とする」
やっと、蔡瑁に教え込まれたその一言を発し、逃げるように席を立った。
「いつもの、女に対する時との態度の差は何でしょう」
憮然とした表情で貂蝉が呟いた。朝議が行われている広間の隅に、彼女は他の女官たちと共に控えていた。
だが、いつもなら貂蝉の隣で更に辛辣な言葉を吐く朱茗の姿はない。
朱茗は蔡夫人殺害の罪で処刑されていた。
刑場に引き出され、斬られる間際まで、朱茗は蔡瑁とその姉である蔡夫人を糾弾し続けた。そこには、普段まったく感情を表さず冷静な彼女の姿はなかった。
朱茗は見物に集まった群衆に向け、蔡一族の罪科を数え上げ激しく罵ったのだ。
巫蟲の術を用いて劉表を呪ったうえ、正妻であった陳夫人に冤罪をかぶせて殺し、自分の子の劉琮に太守の座を継がせるという、おぞましい陰謀を。
最初は、処刑される女の妄言と聞き流していた民衆だったが、やがてこれは単に保身のための出まかせでは無いと気付くに至る。
「
すべてを語り終え、かすかに笑みを浮かべた朱茗の表情こそが、真実を雄弁に物語っていた。
ざわめきが大きくなり、人々の緊張が一気に高まった。
「その女を殺すな!」
ついに、どこからか声があがった。
その声はやがて群衆のあちこちから起こり、ついには地鳴りのように刑場を揺るがした。
「静まれ、貴様らも同罪とするぞ」
刑吏は声を張り上げるが、刑場を包む声は更に大きくなっていく。それに合わせるように、じわじわと群衆の輪は小さくなっていく。
顔色を失い、冷や汗を拭った刑吏は悲鳴のような声をあげた。
「この罪人を斬れ!」
刑吏たちは足早に刑場を去り、後には地に伏した朱茗の亡骸が残された。
☆
「貂蝉、おれは襄陽を出る」
旅装の徐庶が貂蝉を訪れたのは夕刻のことだった。
「おそらくここ数日のうちに城門はすべて閉ざされる事になるだろう。そうなってからでは面倒だ」
荊州をあげて曹操に降る、という決定がなされたことはすでに広く知れ渡っていた。それなのに、すべての城門を閉ざすという。
「なぜです。曹丞相に降伏するつもりなら、その必要は無いはずですが」
徐庶は首を振った。
「劉将軍がこの襄陽へ向かっているらしいのだ。おそらく蔡瑁たちはあの方を城内へ入れたく無いだろうからな」
「劉備さまが。……あの、それで徐庶さまは何処へ行くつもりなのですか」
「その劉備どのの所さ。貂蝉も一緒に行こう。もう、こんな処に居残る義理もないだろう」
たしかに、仕える相手の劉表も蔡夫人もすでに亡い。ましてや劉琮などに使われるなど虫酸が走る。
「ですが、あの方は最前線ですよ。曹操さまの軍に遭ったらひとたまりも無いと思いますが」
いわば、荊州で最も危険な場所だ。好きこのんで行こうとする輩の気がしれない。
「兵力差が大きいのは分かってる。だが、あそこには孔明がいるからな。そう簡単にはやられないさ」
貂蝉は眉をひそめた。あの変態がいるから何だというのだろう。余計に不安しか感じないのだが。
「まあ、いいからいいから」
「ちっとも良くないです」
だが貂蝉は考えあぐねた揚げ句、諦めてこの男について行くことにした。
「意外と強引なんですね、徐庶さま」
「そうかな。おれはただ、おまえを救いたいだけだ」
貂蝉は自室に戻り、行李に着替えなどを詰め込んでいく。徐庶も彼女のとなりにしゃがみ込み、荷造りを手伝い始めた。
「これも持って行くのか?」
貂蝉は顔色をかえた。
「お手伝いなら結構です。しかもなぜ自分の荷物に混ぜようとしてるんですか!」
あわてて徐庶の手から、下着を取り返す。
「もう。冗談がわからない女だな、貂蝉は」
頬を押え、徐庶は口を尖らせた。
「今度やったら冗談抜きで殺しますよ。ひとりで準備しますから、外で待っててください」
「はい」
あくる早朝。霧が立ち込める中を貂蝉は城内の大店を訪ねた。
こんな時間にも関わらず、店主の張世平はいつものように愛想よく貂蝉を迎えた。
「ははあ、やはり城を出られますか。では、これは
そう言って砂金のつまった袋を差し出す。
「餞別などではありませんよ。これは正当な代価です」
驚く貂蝉に張世平は笑う。
「わたしは馬商人ですからな。あの赤兎馬の血をひく仔馬なら良い値段が付くことでしょう。貂蝉さまと赤兎にはいくら感謝しても足りないくらいです」
「仔馬が生まれるのですか」
顔を輝かせた貂蝉に、老商人は大きくうなづいた。
厩舎には赤兎馬のほかに何頭も雌馬が繋がれていた。この中の何頭かが赤兎馬の子を身ごもっているのだ。
「貂蝉さまや赤兎とも、どこかで巡り合うことが有るかもしれません……ただ、おそらくは戦場で、でしょうが」
「はい」
やはりそうなるだろう。赤兎馬には戦場が似合う。あの馬自身が戦いを求めているのが、騎乗するたび貂蝉にも分かった。
「わたしと一緒では、赤兎馬は幸せになれないのでしょうか」
張世平は慈しみを込めた目で貂蝉を見ながらも、小さく首を振った。
「戦いの中でしか生きられないのは、人に限りません。赤兎はあなたを愛しつつ、闘いに身を投じたいと願っている気がします」
「そうか、お前」
貂蝉は赤兎馬の首筋を撫でながら、その鼓動を感じていた。馬ながらに迫りくる戦雲を覚り、密かに昂っている様に思われた。
「行くか、関羽さまのところへ」
呂布と貂蝉の他に唯一、赤兎馬が心を許した武将の許へ。
赤兎馬は鋭く
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