第49話 水魚は交わる

 街道の左右に隠した柴や油に一斉に火が放たれた。

 許都と、劉備が駐留する新野を結ぶ街道は、この地点で両側を山に挟まれ、急に狭隘な地形になっているのだ。

 火は、進攻してきた曹操軍に向け激しく燃え拡がる。先鋒部隊の将、于禁うきんは手にした采配をへし折り、一時退却を命じる他なかった。



 大軍を擁し南下してくる曹操軍を撃退しえたのは、ひとえに孔明の戦術によるものだった。

 まず小部隊による陽動を行い、その隙に間道を使った奇襲をかけたのだ。大軍という驕りがあったのか、于禁の軍はたやすく混乱した。

 敵陣営を掻き回した趙雲と陳到ちんとうの両部隊は素早く撤退する。

 于禁も歴戦の武将だ。すぐに陣営を落ち着かせると、猛然と追撃にかかった。


 しかし焦りがあったのだろう。この山間の地形の変化に気付くのが遅れた。というより、街道に立ち塞がった関羽の姿に釣られたという方が良いかもしれない。

「于禁か。許都に逃げ帰るのならみちを間違えたな」

 大笑する関羽を見て、于禁は顔に血の色を上らせた。

「やかましい。その髯、すべて剃り落としてくれる!」


 関羽に迫る于禁の背後に、轟然と火柱が立ち昇った。于禁が振り向くと、多くの兵士たちが炎に焼かれ逃げ惑っている。

「なんだと……?!」


「早く部下を救ってやるのだな」

 関羽は茫然とする于禁を尻目に、手勢を率いて新野へ帰還した。


 ☆


「これで暫くは時間が稼げます。早く襄陽へ向かいましょう」

 諸葛孔明は劉備の手を握り、耳元でささやいた。指を絡め合った二人のその姿を関羽と張飛が殺意に満ちた目で見ている。


「しかし、軍師どのの策を用いれば、このまま曹操を撃退する事も出来るのではないかのう」

 真面目な顔で言う劉備に、ほほほ、と孔明は笑いかけた。

「まさか。丞相率いる本隊には、あのような小細工は通用しません。戯言たわごとを言っていないで、さっさと逃げましょう。逃げるのは、お得意ではないですか」


「そうかぁ。いや、わしは軍師どのなら出来ると思うが」

 くねくね、と孔明に身体をすり寄せる。


「えーい。行きますぞ、兄者!」

 業を煮やした関羽が劉備の首根っこを掴んで陣幕から引きずり出す。馬の鞍に放り上げ、尻を叩く。

「おい軍師どの、お前も早く来い。置いていくぞ」

「はいはい」

 でも、馬に乗るのは慣れてないんだけどな、と呟きながら孔明は馬の背中にしがみついた。


 その頃になってようやく劉備は、荊州の太守劉表の死と、曹操軍への降伏が決まった事を知った。それも正式の使者ではなかった。伊籍いせきという文官が、個人的に知らせてくれたのである。

 襄陽の政庁において劉備は捨て駒としか見做されていない証拠だった。


 この情報をもたらした伊籍は劉備の臣下として働く事を誓った。そして主に民政面において、孔明と共に力を発揮していくことになる。



 劉備の一行は小高い丘に立ち、遠く城壁を望んでいた。

「襄陽は今や敵の巣窟という訳ですね」

 手にした白羽扇でぱたぱたと風を送りながら、孔明は天を仰いだ。

 

「伊籍どの、誰ぞ城内に内通者はおりませんかな」

 孔明が悪い顔で伊籍に迫る。思わず腰の引けた伊籍はある男を思い出した。最後まで蔡瑁の降伏案に反対した男がいた。


「魏延という武将がおります。あくまで降伏には反対で、劉備どのに心を寄せておられるようでしたが」

 ほうほう、と孔明は頷いた。


「なるほど。ではその者と呼吸を合わせ内外から攻めれば、襄陽は容易に陥落するでしょうね」

 襄陽の堅牢な城壁をもってすれば、曹操軍を迎え撃つのも不可能ではない。江東の孫権に使いを出し、双方で挟撃するのである。


「待て軍師どの。まさか襄陽を攻めるというのか」

「はい。いったい何を聞いていらっしゃったのです」

 途端に劉備は目が泳ぎはじめた。


「だってな、あそこは劉表どのが亡くなったばかりではないか。それに劉琮も、言ってみれば親戚みたいなものだ。武力で奪うのは心苦しいと思わんか」

 孔明は呆れたように劉備を見やった。

「まったく思いませんが」


「冷たい。冷たいぞ、軍師どの。それではまるで水のようではないか」

 なおも訴える劉備に、孔明はあからさまにため息をついた。

「確か『わしは魚で、お主は水。これぞ水魚の交わりじゃ』と仰ったのは劉備さまの筈ですが」

「いや、そういう意味ではなかったのだが」


「ではどうします。襄陽には向かわないのですか」

 ならば、どこか他に逃亡先を選定しなくてはならない。孔明は少し苛立ちをみせた。こうしている間にも曹操軍は迫って来ているのだ。

 劉備は腕組みして考え込んだ。


「いや、このまま襄陽へ向かう。だが城内には入らない」

「は?」


「わしはまだ、劉表どのの墓に参っておらぬ」

 墓参りだと、こんな時に。孔明は伊籍と顔を見合わせた。

「また再びこの場所に来られるか分からぬからな」


「何を縁起でもないことを言っているのだ、長兄は」

 張飛のつぶやきに、皆うなづいた。


 ☆


 劉備の墓参は意外な効果をもたらした。

 劉表に仕えていた士大夫だけでなく、住民までもが、東へ向かう劉備の後を慕って付いて来るのだ。その数は十万にものぼった。


「最初からこれを狙っていたのですか」

 驚嘆する孔明に、劉備は君子然と微笑みかける。

「いやいや、軍師どの。民衆とは、おのずから徳あるものの所へ集まります。これはまあ、わが人徳と言えましょうか。もちろん、これも計算の内です」


「そうやって、自分で言うところが駄目なのだと思うがな」

 張飛がとなりでぼやく。



 だが、これだけの民衆を引連れての行軍がはかどるはずもない。すぐに曹操軍が後方に迫って来た。今度は騎兵を中心とした機動部隊である。速度が断然違う。劉備は馬に鞭をあて、ひとり一目散に逃走をはじめた。


 民衆だけでなく、いつものように劉備夫人も置き去りにされた。


 だが今回は、夫人たちの車の傍らには赤褐色の馬が付き従っていた。その鞍上には甲冑をまとった小柄な武将が跨っている。


「あなたがいてくれると、心強いですわ。貂蝉さま」

 甘夫人の言葉に、馬上の貂蝉は頷いた。



 やがて、一行は広々とした平原に出た。名を長坂坡ちょうはんはという。



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