第48話 襄陽にあがった弔旗
襄陽の政庁は、届けられた報せに一瞬静まり返った。
「曹操軍が来る、だと」
かすれた劉表の声に応える者はいなかった。書簡を手にした蔡瑁は劉表の言葉を訂正する。
「
曹操の私兵ではないと言うのである。
劉表は蔡瑁を睨みつけた。
「貴様、まさか曹操と通じておるのか。曹操と手を結び、儂を追い落とすつもりなのだな」
蔡瑁はわざとらしく首を横に振ってため息をつく。
「何を仰います。閣下は病のため、気が弱っておいでなのでしょう。この機会にご静養を強くお勧めします」
やっと堂内がざわめき始めた。
「曹操は、何のために荊州に向かっているのだ」
声の方を蔡瑁は振り向いた。赤黒く日に焼けた大柄な武将が手を上げている。
「
蔡瑁は舌打ちした。
ここ荊州軍では傑出した武将の一人だ。客将として遇している劉備配下の部将たちにも見劣りしない。ただ、この場においては厄介の種でしかなかった。
「ただの虎狩りだ」
短く蔡瑁は答えた。
「江東には虎が棲むという。丞相はそれを退治されるのだ。狩りには我らも従うつもりである」
「虎だと。それは
孫権は父の孫堅、そして江東の小覇王と呼ばれた兄の孫策の跡を継ぎ、長江下流域で勢力を伸長している。青い目と紫色を帯びた髯という特徴的な外貌を持つこの男は、名将周瑜をはじめとした文武の優れた人材を抱え、まさに虎視眈々と中原を伺っているのだった。
「つまり、曹操に降るという事ではないのか」
激高する魏延を蔡瑁は冷ややかに眺め、あえて返事さえしなかった。魏延は堂内の空気に気付いた。だれも魏延から目をそむけている。
「これは……すでに決まっている、というのだな」
多くの家臣に蔡瑁の手が回っているのが明らかだった。
「ゆ、許さんぞ。蔡瑁!」
起ちあがった劉表だったが、すぐによろめき、左右から支えられた。蔡瑁を指差す手が激しく震え、唇の端から涎が流れている。
「降伏など、絶対に、ならん」
呂律の回らなくなった劉表はそれでも喚き続ける。その袖を蔡夫人が引いた。
「さあ、ここは蔡瑁に任せ、奥へ参りましょう」
蔡夫人が側近に命じ、引きずるようにして退出させる。
「劉備どのは何処におられる。あの方の意見も伺おうではないか」
魏延は諦めきれず、呼び掛けた。
「劉左将軍は、この荊州とは縁もゆかりもない方。意見など聞く必要はない。それに、今は遠く、
許都から進軍して来るとすれば新野は最前線にあたる。
「見捨てる気なのか、劉将軍を」
「さあ。どうなさるかは曹丞相のお気持ちひとつだ」
蔡瑁は薄く笑った。
☆
小さな水桶を手に、貂蝉は劉表の寝室を出た。
朝議の場から退出した劉表は、居室に入るとすぐ床に倒れ伏した。側近によって寝台に運ばれた劉表はかすかな声で呻き続けていた。
「降伏はならんぞ……降伏は」
蔡夫人に呼ばれた貂蝉は、熱をもった劉表の身体を拭いながら唇をかむ。
(なにを今更……)
曹操と戦うつもりであれば、彼が袁紹と対峙していた時が最大の好機だったはず。その際に全く動こうとせず、曹操の侵攻を受けてやっと騒ぎ出すとは、かつて八俊と呼ばれた英傑の面影もなかった。
「もうよい。退がりなさい、貂蝉」
どこか笑みさえ含んだ表情の蔡夫人に促され、彼女は一礼した。
「どうだった、親父の様子は」
廊下に出た貂蝉は背後から抱きすくめられた。
「劉琮さま、戯れはお止めください」
くくっ、と笑った劉琮は貂蝉の腰に回した手を徐々に上げていく。美しい曲線を描いた腰のくびれから、やや控えめな胸に両掌を這わせる。
貂蝉の両手が水桶で塞がっているのを見越した狼藉だった。
「それを置いたら俺の部屋に来い。つぎの荊州太守の子種をくれてやろう」
貂蝉の耳元で囁きながら、劉琮は彼女の背中に腰の硬くなったものを押し当てる。両手では貂蝉の胸をまさぐり続け、その先端を探ろうとしていた。
貂蝉は手を上げると、掲げた水桶の水を背後の劉琮に浴びせかけた。
「くそっ、何をする」
飛びのいた劉琮だが、すでに頭から水をかぶっていた。
「貴様、この無礼者め」
劉琮は剣に手を掛ける。だがその剣を抜くことは出来なかった。冷たい空気が目の前の官女から流れ、劉琮の背筋を凍らせた。
「この、このっ……」
柄に置いた右手が震え出す。
玲瓏とした貂蝉の瞳で見詰められた劉琮は、そのまま動くことすら出来ない。
ふっと空気が緩む。
貂蝉が目を伏せたのだ。
我に返り息を吐いた劉琮は、剣を握る手に力を込めた。
その瞬間。
「これは劉琮さま。今日は一段と、見眼麗しいこと」
背後からのまったく感情の籠らない声に、劉琮はまた動きを止めた。
「し、
立っていたのは女官長の朱茗だった。その顔には声と同じく、全く表情というものが無い。
「劉表さまがお呼びです」
舌打ちした劉琮は着替えの為に自室へ戻って行った。
それを見送った朱茗は、貂蝉の手にした空の水桶に目をやる。
「床を拭いておきなさい」
そう言うと朱茗は何事も無かったように背を向けた。
☆
その夜、荊州の太守劉表が死んだ。
あらかじめ定められた通り、次男の劉琮がその後継となる。
長男の劉琦はすでに辺境の守備に送られており、この人事に反対する者はいなかった。これはもはや織込み済といってよかった。
だがそれにも関わらず、襄陽は混乱に陥っていた。
蔡夫人が何者かによって殺害されたのだ。
夜目でも分かるほど顔を歪めて白目を剥き、青黒く変色した舌を突き出した蔡夫人を、皆が遠巻きにしている。
しかし、誰も夫人が横たわる寝台に近づこうとしなかったのは、その形相ゆえではない。
彼女の胸元には短剣が突き刺さり、その横には毒々しい色をした巨大な芋虫が這っていたからだ。
明らかに自然のものではないそれは、呪わしい巫蟲の術によって生まれたものに違いなかった。
貂蝉も部屋を取り巻く人だかりの中に混じっていた。
「陳夫人を罪に陥れた報いです」
その声に彼女は振り向く。すぐに朱茗と目があった。その目は少し潤んでいるように見えた。
陳夫人とは、巫蟲の術を行った咎で処刑された、劉表の正室である。それがこの蔡夫人の陰謀であった事は襄陽内では公然の秘密となっていた。
「ふたり揃って
「朱茗さま……」
貂蝉は眉をひそめた。
女官長、朱茗からは微かに血の匂いが漂っていた。
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