第47話 臥竜崗の出会い

 砂塵を含んだ強い風が朝霧を吹き払う。

 許都の城壁前には、漆黒の甲冑で武装した軍団が、部隊ごとに方陣を組み、出撃命令が下るのを待っていた。


 その中からひとりの武将が騎乗のまま進み出た。隻眼将軍、夏侯惇である。

 彼は城頭を見上げ、両手を合わせ曹操を拝する。


 それに応えるように曹操が片手をあげた。

 兵士たちは喊声とともに大地を踏み鳴らす。それは許都の城壁を揺らした。


 曹操は手を振り下ろし、号令した。

「襄陽へ!」


 ☆


「こんなに遠いのか、その臥竜崗がりょうこうというところは」

 坂道を登りながら張飛が泣き言をいう。


「情けない奴だ。山賊などやって遊んでいるから、身体が鈍ったのではないか」

 劉備に叱られ、張飛はうなだれた。

「うう。一言もない。確かに内腿にぜい肉がついてしまった」

 いわゆる髀肉之嘆ひにくのたんというやつである。


「いや、しかし立派な馬だな。そして驚くほど従順だ」

 関羽は貂蝉が乗る赤兎馬を見て、何度目かのため息をついた。赤兎馬も、大人しく関羽が手綱を引くのに任せている。

「この赤兎は人を選ぶのです。関羽さまは信頼できると分かるのでしょう」


「ちぇ、俺のときは蹴飛ばしてきたくせに。生意気な馬だ」

 顔面にひづめの痕をつけた張飛は少し拗ねている。しかし赤兎馬に本気で蹴られたなら、いくら張飛といえど即死は免れない。赤兎馬も遠慮してくれたのだろう。



「あれが孔明の居宅です」

 徐庶が彼方を指差す。

 小さな家の周囲は畑に囲まれ、ひとりの男が収穫作業をしているのが見える。徐庶が止める間もなく、劉備は足を速めその男に駆け寄った。


「孔明どのっ!」

「ひやあーっ」

 急に後ろから抱きつかれ、諸葛均は悲鳴をあげた。


「あなたが諸葛孔明どのですか。お会いしたかったですぞ!」

 劉備はその身体をしっかりと抱きしめ、頬ずりする。

「ひ、ひいい、ひいいっ」

 あわてて徐庶が止めに入った。

「違いますよ、劉将軍。彼は孔明の弟で諸葛均といいます」


「え、なんだ。それは失礼」

 劉備は身体を離し、一礼した。すでに温厚な君子顔を取繕っている。

「実はわれら、諸葛孔明どのに会いに来たのでござる。御在宅かな」

 均は顔を引きつらせたまま、がくがくと頷いた。



「兄上っ。なんだか変質者が兄上に会いたいと、襄陽から来ておいでです」

 諸葛均は家の中に声をかける。


「まあ、お客さまですか」

 柔らかな声とともに、メガネを掛けた女性が顔をだした。


「おおっ、孔明どの。お会いしたかったですぞおっ!」

「きやああああ!」

 悲鳴をあげる黄氏を劉備は抱きしめ、何度も頬ずりする。


「ふんっ!」

 貂蝉は劉備の襟首をつかんで黄氏から引きはがすと、そのまま地面に投げ捨てた。黄氏も加わり、続けざまに、げしげしと蹴りを入れる。

「この変態が、この変態が、この変態が!」


「あ、あの。もうそれくらいで……」

 関羽と張飛が涙目で訴える。


「もしや、この方も諸葛孔明どのではなかったのかな?」

 劉備は地面に正座していた。全身から白煙のように砂ぼこりが舞っている。


「見れば分かるでしょう、この方は奥さんの黄氏です」

「だが、黄氏という方はブスだと聞いていたのに、ずいぶん可愛い人ではないか。いやこれは、わたしが見間違えたのも無理はないな。ははは」

「あら」

 黄氏の顔がほころんだ。


「でも、男と間違えてたじゃないですか」

 貂蝉は舌打ちした。さすが劉備、口だけは達者だ。


 ☆


「ええ、孔明なら中に。あ、でも寝ていますから、少しお待ちいただくようになりますけれど」

「なんだと。俺が叩き起こしてやる」

「張飛、乱暴はいかん」

 腕まくりをする張飛を関羽が宥める。


「ならば関兄、この粗末な家に火をかけてやろうではないか。そうすれば起きて来るに違いないぞ」

「住人の前で、そんな話をしないで下さい!」

 鋭い目で黄氏に睨まれ、張飛は青くなって身を縮ませた。


「それでは気長に待たせていただきましょう。我らはこの玄関先で待っておりますので、貂蝉どのと徐庶どのは中へ」

「まあそんな。一緒に中へどうぞ。もう怒っておりませんから」

 黄氏が勧めても劉備は入ろうとしない。


「意外と義理堅いのですね。劉備さまって」

 貂蝉は徐庶に小声で話しかける。さすが評判の人徳者だ、と徐庶も頷いた。


「いやいや。こうして外で待っていたとなれば、孔明どのに与える印象も違って来ますからな、うはは」

 見え透いた策略だった。

「しかも自分で喋っているし」

 貂蝉は額を押えた。


 下心がばれたところで、劉備も一緒に家のなかに入って来た。

「ほう、これが。……まさに臥竜ですな」


 部屋の真ん中で、諸葛孔明は長くなって眠っていた。無駄に背が高いだけあって、部屋の半分までを占拠している。


「いつもこうなんですよ。お恥ずかしい」

 黄氏は愉しそうに笑っている。

「しかしこれはどうしたものか」

 足先で孔明をつつき徐庶が苦笑する。

「水でも掛けてみるか。竜だけに」


「そうだ」

 貂蝉はふと、ある本を思い出した。師匠の聶隠じょういんに読んでもらったその物語には、こういう眠ったままの人間を目覚めさせる方法が書かれてあった。

「たしか、眠れる森の何とか、という題名でしたけど」


「口づけ、ですか……」

 黄氏も曖昧な表情を浮かべて、どこか逃げ腰になっている。


「なるほど事情はよく分かりました。それでは、わたしが」

 立ち上がったのは劉備だった。眠る孔明の傍らに膝をつき、身体をかがめる。


「あ、あの。劉備さま」

 さすがに慌てた様子で黄氏が止めに入る。

「止めて下さるな、奥方。これも天下国家のためなのです」

 躊躇することもなく、劉備は孔明と唇を重ねた。


「うぐ」

 見守る徐庶や関羽たちの間からうめき声が漏れた。

「劉備さま。そろそろ、いいのでは……」

 貂蝉も顔をそむけながら言う。


 やっと劉備が顔をあげ、大きく息をつく。


「おお、孔明どのが目覚められましたぞ」

 ぼんやりと辺りを見回していた孔明の目の焦点が合った。


「あなたは、劉備さまでは」

 孔明は濡れた口元を拭う。

「これは一体、どういう事です」


「わたしと共に漢王朝を復興しようではないか、孔明どの」

 劉備は爽やかな笑顔で言うと、孔明の手を握る。その手をじっと見つめていた孔明は、ぽっと頬をそめた。


「わかりました」


 ☆


「なあに。実は劉将軍が荊州に入られた時から目をつけていたんだよ」

 劉備たちが帰って行った後、孔明は徐庶に言った。


「だってそうじゃないか。劉表一族に取り入ったとしても、官吏として終わるのが関の山さ。各地の有力者について調べるのは当然だろう」

 孔明は積み上げた竹簡を指差した。すべてその資料だった。

 いつの間に……徐庶は唸った。


「知っての通り、わたしは春秋の管仲かんちゅう楽毅がくきに匹敵する逸材なのだからな」

 良禽は止まり木を選ぶものだよ、孔明は不敵に笑った。


「ところでなぜ、わたしは急に目覚めたのだろうな」

 首をひねっている。普段は夕方まで絶対起きないのに。


「さ、さあ……それが運命というものではないのかな」

 徐庶は言葉を濁し、襄陽に戻って行った。


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