第46話 諸葛亮、生贄にされる
「変態か……。まあ、それでもいい」
劉備はしばらく考え込んでいたが、決然と顔をあげる。懐に手を入れると布切れを取り出した。全体に変色し、何かの染みがついて薄汚い。
貂蝉は顔をしかめた。
「何ですか、それは」
突然、劉備は天井を仰ぎ号泣し始めた。
見ると関羽と張飛も背後で目元を押えている。
「あの……劉備さま?」
「漢の丞相である曹操は、人材を収集するにあたって、才能さえ有れば素行は問わないと宣言した」
兄嫁を寝取り、賄賂を受け取るような者でも構わないというのである。これは前漢の高祖
「それを思えば、多少の変態など」
劉備は手にした布に視線を落とした。
「わたしも人材を集め、何としても陛下の期待に応えねばならぬのだ」
「陛下……とは、まさか」
息を呑む貂蝉。劉備は大きく頷いた。
「これは献帝陛下より賜った、曹操打倒の勅書なのだ」
☆
これだけ汚れているのは、敗走を続ける中にも肌身離さず持ち歩いていたからだろう。劉備の漢朝に対する思いに、貂蝉も目頭が熱くなった。
(まだこのように忠誠を誓う人たちがいたのか)
貂蝉はそれを手にとり、額に押し戴いた。
「大切に持っておられたのですね」
潤んだ瞳で見詰められ、照れたように劉備は頷いた。
「ああ。失くしては一大事だからな。ちゃんといつも、ふんどしのなかに隠しておいたのだよ」
「……」
貂蝉は無言で勅書を放り出し、服の袖で手や顔を拭う。
「おや、どうしたのかね?」
怪訝そうな笑顔で劉備は首をかしげる。貂蝉は殺意を込めて彼を睨んだ。
「もう、どっちが変態ですか。女子にこんなモノを持たせるなんて」
「うう、奥さんにも殴られた事ないのに」
劉備は口を尖らせた。押えた左の頬が赤く腫れている。
「ということで、まずはその徐庶という男に会いたい。どこに行けばよいのかな」
気を取り直した劉備は本来の目的を思い出した。
「徐庶さんでしたら、張世平という方の紹介で、近くに家を借りておられます」
「ん、何と言った」
劉備の顔色が変わっている。
「家を借りて」
「いや、その名前だ、張……?」
「張世平さまですか」
劉備と義弟ふたりは顔を見合わせた。気まずい雰囲気が漂う。
「あの老人も荊州にいたのか、まずいな」
貂蝉は以前、張世平が言っていた事を思い出した。
「ああ。劉備さまは馬や兵士の代金を踏み倒して逃げたのでしたね」
慌てて手を振る劉備。
「逃げたのではないぞ。ちょっと借りているだけだ。返す当ては……あれだが」
「あれだが、じゃありません。借りた物を返さないような、人徳者がいますか」
「す、すまん」
「倍にして取り立てる、と仰ってましたよ」
はぁー、と劉備は溜息をついた。
「うむ。ではまた恥をしのんで逃げるか、関羽、張飛」
「仕方ありませんな」
「ちょっと待ちなさい!」
夜逃げの支度を始めた三人を貂蝉は怒鳴りつける。
「利子くらい払ってあげたらどうですか」
「だって、あの張世平のジジいに捕まったら、三年くらいは無給で強制労働させられるのだぞ、これは逃げるしかないだろう」
あの老人も、見た目に依らず悪人のようだった。
☆
「おお、貂蝉ではないか。久しぶりだな」
門の前に立っていると、本の包みを抱えた徐庶が帰ってきた。
「ん、その人相の悪い連中は誰だ。もし借金取りだというなら追い払ってやるぞ」
貂蝉は後ろの三人を見て苦笑した。
「大丈夫です。この方たちは劉備将軍と、その義弟さんです」
「いやあ、お恥ずかしい。実は我らは借金を抱えている側でして」
頭を掻きながら劉備が笑う。
「どうぞ、張世平どのには御内密に」
「はあ、では中に」
徐庶は門をあけ、招き入れた。
「ほう、軍師募集中なのですか」
その募集要項を読んだ徐庶は胡散臭そうに三人を見た。
「好待遇を保証とありますが、お給金は出るのですか」
ぐわっと関羽が目を剥いた。
「貴様、それでも士大夫か! かつて士大夫といえば名誉をこそ求め、金など求めないものだ。それがこの有様とは、なんと嘆かわしい。斬って捨てるぞ」
あまりの迫力に徐庶は床にへたり込んだ。
「でも関羽さま。給料は出世払いとなっていますし、この軍団に加わる際に持参金が必要とも書いてあります。徐庶さんの心配は当然です」
貂蝉もその募集要項を読んで指摘する。
「わはは、やはり貂蝉は女だな。こんな簡単な事が分からないとは」
張飛が大口をあけて笑う。
「その持参金を元手にして、われらが何倍にもして返してやろうというのだ。こんな良い話はあるまい」
貂蝉の頬がピクピク動く。こいつら、絶対に仲間になってはいけない連中だった。
「なあ、貂蝉。あれは本当に劉左将軍なのか。いや、たとえ本物でもいいから、何とか追い払ってくれよ」
徐庶は顔を寄せ、小声で貂蝉に頼み込む。
「だったら、諸葛孔明さまのところに案内されては如何です。変態だとは言っておきましたが、それでも構わないそうです」
「おお。それはいい」
えへん、と咳払いして徐庶は立ち上がった。
「この徐庶などは愚鈍にして非才にございます。ですが、この襄陽には
おお、と劉備の目が輝いた。
貂蝉は徐庶の袖を引いた。
「なんですか、そのやたらと格好いい綽名は。あの諸葛孔明さまの事ですよね?」
「おう。有名人ってのは、大体こんな二つ名を持っているものだろう」
「でもそんな綽名、初めて聞きました」
「うん。いま考えたのだ。いつも寝てるからな、あいつは」
額をおさえ、貂蝉は横を向いた。
「臥竜と
あの、と貂蝉は首をひねる。不信感が顔に出ている。
「こんどは誰です、鳳雛って。適当に言ってませんか」
「いやいや。
「ほとんど詐欺師の手口じゃないですか。それになぜ鳳雛なんです」
ああ。徐庶は笑った。
「
飛べないから、鳳凰の
「では、諸葛孔明の棲む『
徐庶は劉備たちを従え、意気揚々と歩き出した。
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