第45話 暗殺者の系譜

 劉備を迎えた襄陽城内では宴会が催されていた。

 漢の左将軍、皇叔として、劉備はここ荊州でもその名を知られている。

 実際のところ、ほぼすべての戦さで負け続けている劉備だが、なぜか世間一般では常に強者に立ち向かう庶民の味方という評判が出来上がっていた。


「そんなものは虚名でござる。わたしは民を守る事すらできぬ、無力な男なのです」

 よよよ、と泣き崩れる劉備を、劉表ら荊州の人士は感動の面持ちで見ている。

「なんと。噂に違わぬ仁者であられる」

「お労しいことだ」

 皆つられて、もらい泣きしている。

 こうしてまた、美化され拡大再生産された劉備評が独り歩きしていくのだった。


「兄者もあれを意図的にやっているなら、大したものだが」

「単に事実でしかないからな」

 関羽と張飛が小声で嘆いている。

 まあ、正直に勝る譎詐けっさなしか、関羽はつぶやいた。


 ひとりの女官が、酒壺を置いて足早に広間を抜けていく。

「まさかこんな場所で会うとは……」

 貂蝉にとって因縁深い男たちとの再会だった。だが彼らを見ると、どうしても呂布の死に顔を思い出して、哀しみと怒りがこみ上げて来る。


 そそくさと宴会場を抜け出そうとした貂蝉に劉備は気付いた。すぐに大声で呼び掛ける。

「もしやあなたは、貂蝉どのではありませんか?!」


(なんて目ざとい奴)

 舌打ちして貂蝉は振り返った。

「これは劉備さま。わたしのような者を憶えていただけたとは光栄です」

 もうその顔には何の表情も浮かんでいない。丁寧に一礼する。


「劉備どのは貂蝉を御存じでしたか」

 長身ではあるが、すっかりやせ衰えて顔色も悪い劉表は、不思議そうに首をかしげた。


「徐州で呂布と争っておりました時に、少々縁がありまして。司徒であられた王允さまの養女なのでしたな、貂蝉どのは」

 貂蝉は小さくうなづいた。彼女が暗殺者であったことを知るものは、呂布の他には張遼しかいない。


「ところで、このあと貂蝉どのをお借りしてもよいですかな、劉表さま」

 劉備は好色な笑みを浮かべた。

「朝にはお返しいたします」

「それはもちろん。いやいや、劉備どのも隅に置けませんなぁ」

 ふたりは高笑いしている。貂蝉はそれを殺意に満ちた目で睨んだ。

 

 ☆


「無礼を許してくれ、貂蝉どの。あの場では他に言いようが無かったのだ」

 貂蝉を伴い部屋に入った劉備は頭をさげた。丁寧に椅子を勧める。


 張飛が武骨な手で器用に茶を淹れて、貂蝉の前に置いた。

「え、美味しい」

 ひとくち啜って、思わず張飛の髯面を見上げる。張飛は得意げに笑った。

「誰にでも、思わぬ所に取り得がある」

 関羽も表情を和らげる。


「うむ。俺も自分にこんな特技があるとは思わなかった」 

 もともと肉屋をやっていた張飛は、意外と手先が器用だった。


「率直に訊くが、ここ荊州の状況はどうなのだ。劉表はどう見ても、余命いくばくも無さそうではないか」

 劉備は声を潜める。

「流亡の我らとしては、ほかの連中の動向を詳しく知りたいのだ」

「なぜそれをわたしに。わたしとて、ただの官女ですよ」

 いやいや、と劉備は首を振る。卓上の筆を弄んでいた劉備は、鋭い動きで墨のついたそれを貂蝉の顔前に突き出した。


「おおう」

 関羽と張飛は目を瞠った。劉備は腕を後ろにねじり上げられ、床に組み伏せられていた。貂蝉は劉備から奪い取った筆を手に、目を細める。

「何の真似です、劉備さま」

 墨汁の一滴すら彼女に付着していなかった。


 背中を貂蝉の膝で押さえつけられた劉備は小さく呻いた。

「ちょっと貴女を試してみたのだ。一目見た時からただ者ではない身のこなしだと思っていたからな」

 服を払いながら起き上がった劉備は大きく息をついた。両目の周りが筆で黒く塗られている。

「これは大熊猫か!」

 張飛が大喜びしている。悪戯をした本人の貂蝉も苦笑した。

「いよいよ人気が出そうですな、兄者」

 まんざらでも無さそうな劉備を見て、関羽が肩をすくめた。


 ☆


聶隠じょういんという方から、剣舞の基礎を習ったことがあります」

 彼女は王允の家宰といっていい女性だった。出自ははっきりしないが、剣舞のほか閨房における性技にも長けていた。

 だが貂蝉のその一言は劉備たちに衝撃を与えたらしい。三人は顔を見合わせ、何事か小声で話し合っている。


「どうしたのですか」

 貂蝉が声をかけると、劉備たちはびくっと身体を震わせた。

「ご存じではなかったのか、貂蝉どの」

「聶隠という方は……」

「おお。恐ろしい」


 劉備たちはそれぞれ侠客としての顔を持つ。今では聖人君子然としている劉備だが、塩の密売をしていた関羽や、その弟分の張飛を引き連れ、対黄巾賊の戦いに投じたのが世に出るきっかけだった。


 その侠客の間でひそかに語られる女性がいる。

 幼い頃、謎の尼僧によって誘拐され、剣の技を仕込まれた彼女は、すぐに虎や豹と闘い首を討つまでに上達する。さらに数年後には自由に空を飛ぶことが出来るようになり、猛禽類までも仕留めたという。

 仙術を身につけた美しき暗殺者。彼女に狙われたものは決して逃れることはできない。

 それが聶隠娘じょういんじょうの伝説だという。


「物を拾うような容易さで、大軍に守られた将軍の首を討つことができる、というのだよ。これを怖ろしいと言わずになんというべきか」


「でも関羽さまも、官渡の戦いでは同じような活躍をされたのでしょう?」

 袁紹の麾下である猛将、顔良を単騎で討ち取ったと聞いた。

「いやまあ、あれは相手が弱すぎただけだからな。聶隠どのとは比較にはならぬよ」

 関羽は迷惑そうに手を振った。

「そうですか」

 それでも十分、人間離れしているとは思うが。貂蝉は言葉を呑み込んだ。

 


「ところで、わたしに話があるのでは」

「おお、そうであった。いやー、思わぬ話に動揺してしまった」

 劉備は笑って頭を掻いた。

「のう、貂蝉どの。どこかにいい男はおらぬかのう」

「はあっ?」


 思わず後ずさった貂蝉を見て、劉備は慌てて立ち上がった。

「違うのだ、そういう意味ではない。そっちの方面は間に合っているからな」

 そう言って劉備は、背後の関羽と張飛に目をやる。

「そっち……とは」

 貂蝉は眉をしかめた。なぜか関羽と張飛も頬を染めている。


 どうにか気を取り直した貂蝉は、ひとつ咳払いをした。

「……まあ、あなた方の性癖に興味はありませんし。何です? 参謀となる人材を探しておられるのですか」

 うむ、と劉備は頷いた。

「我らに欠けているもの。それは頭脳なのだと、やっと気付いたのだ」

 ああ、と貂蝉はこの三人を見渡し納得した。


「徐州で加わった麋竺びじく孫乾そんけんは有能だが、あれは官僚としての有能さだからな。どこかに、兵家の学を修め、更には国家を語るほどの経綸の才を持つ者を知らないか」

「贅沢すぎませんか」


 おそらく曹操配下の荀彧じゅんいくのような人物を言っているのだろう。だが、そんな人材がいれば、どの陣営も欲しがらない訳がない。わざわざこんな、うらぶれた集団の一味になってくれるとも思えない。


 ふと貂蝉の頭に、ある男たちの顔が浮かんだ。

「どうした、誰か心当たりがあるのか」

 劉備が身体をすり寄せてくる。


「一人は徐庶じょしょといいます。そしてもう一人は……ただの変態ですが」 

 劉備の表情が、あからさまに曇った。



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