第44話 流浪の軍団、再集結する
徐州での大敗後、劉備は袁紹に庇護を求めて冀州へ奔り、残された関羽は劉備の夫人たちと共に曹操の捕虜となった。
「おお、関羽を捕らえたか」
陣幕を駆けだしてきた曹操は、縛り上げられ地面に座す関羽を見て、その場に立ち尽くした。
その顔が、見る間に赤く染まっていく。
「誰だ、こんな事をしたのは!」
「申し訳ありません、丞相」
関羽の横に張遼が膝をついた。全身を強張らせ、項垂れる。
「張遼か。なぜ関羽のような立派な武人に縄をかけた。貴様とて武士の心を知らぬ訳ではあるまい」
「ははっ」
「いや、丞相。これは私が張遼どのに頼んだのだ。降人であるからには当然のことではないか」
落ち着いた声で関羽が曹操に言う。張遼は後ろの車に目をやった。
「劉将軍のご夫人方があの車の中に。関羽どのは自らの命と引き換えに、あの方々を救って欲しいと云うのです」
困ったように曹操は眉をひそめた。
「それはならんな、張遼」
「丞相!?」
張遼は悲鳴に似た声をあげた。関羽は黙って頭をたれる。
「当然ではないか。関羽はわたしの麾下の将となって貰わねばならん。斬るなどもっての外だ。夫人方を守りたいというのであれば、護衛でも侍女でも、望むままに用意する。なぜ命と引き換えに、などと言う必要があろうか」
曹操はかがみ込むと、手ずから関羽の縄を解き始める。そこで、ふと手を止めた。
「おい、張遼よ」
苦笑いをうかべ、曹操は横で膝をついた張遼を見やる。
「これはだいぶ、縛り方が緩いようだな」
「恐れ入ります」
その張遼の肩をぽんと叩くと、曹操は関羽の手をとって立たせた。
☆
「わたしの為に働いてくれ、関羽」
黙り込んだ関羽を曹操は覗き込んだ。
「どうした。なぜ泣いている」
関羽は天を仰いだ。
「漢のために働くは我が本懐。しかし、義兄の事を思うと、それはできぬ」
曹操はもはや劉備の仇敵と言ってもいい。
「そうか、これは失言であった。漢の皇帝陛下のため、わたしと共に来い、関羽」
「袁紹と雌雄を決する時は近いと聞いたが」
関羽は張遼を見た。
頷いた曹操は更に強く関羽の手を握る。
「関羽。そなたの力を貸して欲しい。袁紹は我が軍に数倍する戦力を持っているが、そなたが加わればもうそんな事を恐れる必要はないのだ」
恋する少女のような瞳で懇願された関羽は、否応なく曹操軍の一員となった。
どうやら劉備は袁紹の本隊にはおらず、徐州方面で曹操軍を牽制しているらしい。
それを聞いた関羽は渋々うなづいた。
「今回だけですからな」
袁紹陣営の後方に高く上った黒煙。それを見た曹操は勝利を確信した。
序盤、袁紹の大軍に圧倒された曹操軍だったが、関羽が敵の主将
続いて顔良と並び、袁紹軍の二枚看板ともいうべき猛将、
「
二将を失い動揺する袁紹に、決定的な報告がなされた。
曹操の別動隊は大きく戦場を迂回し、袁紹が備蓄した兵糧を焼き払ったのだ。
これでは大軍を維持することはできない。
ついに袁紹は撤退を決意した。
潰走していく袁紹軍のなかで、ひとつの部隊が整然と矛を伏せ、地に膝をついて曹操を迎えた。
「
曹操は驚いて、その隊を率いる男の前にしゃがみ込んだ。
鋭い光を放つ双眸で曹操を見返したのは、後に司馬懿とともに諸葛孔明と激闘を繰り広げる事になる名将、張郃だった。
「烏巣の守備を強化するよう袁紹閣下に進言しましたが、臆病者と罵られ後方に回されたのです」
ほう、と曹操は後ろに控える参謀の
「危ないところだったな、荀攸」
荀攸は苦笑して首を振った。
「叔父の
「よかろう。張郃、わが軍に加われ」
張郃の部隊は一斉に起ち上った。
規律正しいその動きだけで、この部隊の精強さが分かる。曹操は満足げに頷いた。
☆
袁紹から兵を借り徐州の辺りを荒らしまわっていた劉備は、袁紹の敗退を知るや、すぐに荊州へ向け逃げ出した。
さすがの劉備も、この少数の兵で徐州を占拠するのは無理だと諦めたのである。もはや頼るべきは荊州の劉表しかなかった。
「兄者は荊州へ向かっている?」
曹操とともに陣幕で戦況の報告を聞いていた関羽は思わず声をあげた。反対に曹操は舌打ちしそうな苦い表情になった。
追い払うように使者を退出させる。
「あー、ところで関羽」
「お願いがあります、丞相」
ふたりは同時に声を発した。
「な、なんじゃ関羽。申してみよ」
睨みつけるような関羽の眼力に押され、曹操は先を譲った。
ふふん、と関羽は先頃曹操に貰った印を取り出した。
「これを憶えていらっしゃいますな」
「もちろんじゃとも」
『漢寿亭候』印。
「私は任地へ赴こうと存じます」
ぐぐ、と曹操は唇を噛んだ。
「そ、それは、漢の寿亭候という意味だぞ、関羽」
慌てて取り繕う曹操に対し、関羽はにやりと笑った。
「お戯れを、丞相ともあろう方が」
取り出した印面にふっと息を吹きかける。
「これは亭(町くらいの意味)の領主印。つまり、拙者は『
「
曹操はがっくりと肩をおとした。
『漢寿』と云うそのちいさな町は荊州にあった。
「やはりお前は、ここに留めておくことは出来ないのか」
落涙する曹操の前に、関羽は膝をついた。
「この御恩は決して忘れません」
「ああ。行け、関羽。邪魔だてはせぬ」
「至るものあれば、去るものあり……。惜しいことだ」
曹操は、劉備夫人の馬車を守り遠ざかる関羽の背中を見送り、つぶやいた。
「行かせていいのか、孟徳」
夏侯惇が曹操の後ろに立った。
「ああ。最初から分かっていた。どれだけ愛しても、関羽の心がわたしに向く事は無い、と云うのは」
うむ、と夏侯惇は呻いた。
「お前のそういう所は、ちょっと気持ち悪いな」
「放っておけ」
曹操は微かに笑った。
やがて、関羽と劉備は再開を果たした。
張飛は山賊になっていたところを発見され、無事に一行に加わった。趙雲ら部将たちも追いついて、どうやら軍といえる程度にはなってきた。
「おお、見ろ。あれが襄陽だ」
劉備が馬上で声をあげた。街道の彼方に荊州の都、襄陽の城壁がそびえていた。
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