第43話 曹操と劉備、英雄を語る

「やはり、見なければよかった……」

 暗い顔で劉備は呟いた。想像した通り、下賜された帯には密書が縫い込んであったのだ。直截的な文言こそ無かったが、曹操を討てという意味であるのは明らかだった。


 そして、その事さえも曹操は知っていると思った方がいいだろう。曹操の屋敷の立派な門が地獄の入り口に見えてきた。

 まあ仕方ない、出たとこ勝負だ。劉備は両掌で顔をごしごしと擦った。


「劉備でござる。お招きにより参上致しましたぞ」

 先程までの陰鬱な表情は欠片もなく、劉備は明るく片手をあげた。




「当代の英雄、ですか。曹操どの?」

 うむ、と曹操は頷く。中庭に設けられた小さな東屋あずまやで二人は酒を酌み交わしているのである。


「今の世で、天下を手中にするなら誰かと思ってな。劉備どのの意見を聞かせていただきたいのだ」

 劉備は思わず辺りを見回した。従者がひとり、屋敷の入り口で侍しているが、声が聞こえる距離ではない。

 この場に居るのは劉備と曹操だけだった。


 人物評が盛んだった当時、このような話題は決して珍しいものではない。曹操自身、許劭きょしょうによる月旦評げったんひょうにより『治世の能臣、乱世の奸雄』と評された事が、世に出るきっかけになったのだ。


 ただ、この人物評という行為は、評者が誰をどう評価するかによって、その評者自身の人物をも知る事ができる。

 酒席の余興としては面白いものだが、自らの裡にあるものをさらけ出す事にも繋がる、難しい話題でもあった。


 よりによって、なぜ今日ここでなのだ。劉備は背筋に汗が流れるのを感じた。


「それはもう、偉大なる曹丞相をおいて他には居りますまい」

「うん。それはよく分かっているが、それでは面白くない。劉備どの、わたしの他には誰だと思う」

 曹操め意外と鉄面皮だ、だが劉備はそれをおくびにも出さず温顔を保ち続ける。


 徐州陥落当時の情勢では北の冀州と幽州は袁紹が支配を固め、江南には袁術の支配を脱した孫策が頭角を現している。長江中流域の荊州は劉表、そしてさらに上流、蜀の地は劉焉りゅうえんの後を継いだ劉璋りゅうしょうが治めている。


「その中では袁紹どのでしょうか」

 中華全土を見渡しても、諸侯中で最大の兵力を擁し、袁紹自身も三公を何度も出した名門の出身である。反董卓連合でも盟主となった。最も天下に近い男といって間違いないだろう。


 すると曹操は明らかに不満げになった。

「なんだ。劉備どのは、袁紹ごときを、わたしと較べようというのか」

「曹操どのの他に、って言ったからではないですか」

 劉備は首筋にひやりとしたものを感じた。

 おお、そうであったな。すまんすまん、と気を取り直した曹操は劉備に新たな酒を注いだ。


 夕闇があたりに漂う時刻になって、やや気温が下がったようだ。温めた酒の馥郁とした香りが杯から湯気とともに立ち上った。

 先程の従者が東屋の周囲に松明を並べていく。


「そうだな。袁紹は良い奴だ。わたしが踏み台とするに丁度いい程度にな」

 松明の炎が揺れ、曹操の毒を含んだ笑顔を照らし出した。


「孫策は未だ黄口こうこう儒子じゅし。いわんや劉表、劉璋などは劉姓を持つだけの凡庸人、ここで語る価値すらない。ただ……」

 そこで曹操は意味ありげに劉備を見た。

「ただ、君を除いてだ劉備。わたしが天下を争うのは、そなたではないかと思っているのだがね」

 劉備は首筋の毛が逆立つのを感じた。危険が迫っている証拠だった。


 つぎの瞬間、薄闇の中庭が昼間ほどの明るさになった。

「ああっ!」

 そしてほぼ時を置かず凄まじい雷鳴がとどろき、大地を揺るがした。


 静寂が戻るのと同時に、やや強い雨が降り始めた。

「どうやら、近くに落ちたようですな。ああ驚いた」

 思わず耳をふさぎ卓に突っ伏していた劉備はおそるおそる頭をあげた。


 見ると曹操は鋭い視線を劉備に向けていた。

「あの、何か」

「劉備どの。気付かなかったか」

「何にでしょう」


 曹操は固い表情のまま、酒を一口含んだ。

「先程、劉備どのの背後から、蒼白い光の龍が天空へ上っていった」


 ☆


 漢の皇帝を手中にする事の有利さに気付いた袁紹は、曹操に対して献帝の動座を要請した。みずからが拠点を置く鄴都ぎょうとの方が、偉大な漢帝国皇帝の居所に相応しいというのである。


「なにを今更、ではありますが」

 曹操と共に使者を引見した荀彧は呆れたように首を振った。かつて、その事を袁紹に進言した謀臣の沮授そじゅらは処刑の憂き目に遭っているのだ。

「それもまた奴らしい。だが確かに鄴はいいな。そのうち宮殿ごと譲ってもらうとしようではないか、荀彧」

 曹操はうそぶいた。


 当然だが、この交渉は決裂した。


 徐州で反乱が頻発しているとの報が入ったのもこの頃である。送り込んだ刺史まで殺害される事態に、曹操は軍の投入を決意する。

 それに劉備が飛びついた。

「かつての領地のことで曹丞相のお手を煩わしては申し訳ない。この劉備が責任を持って鎮めてまいります」


 対袁紹戦を見据え、北方に戦力を集中したい曹操もそれを認めた。もちろん劉備の夫人たちは許都に留めたままだったが。

「また人質になってしまいましたわねぇ」

 糜夫人と甘夫人が嘆きあったのも無理はない。


 それから間もなく、車騎将軍 董承による曹操暗殺計画は露見し、董承は一族もろとも誅殺された。


 劉備も陰謀に加担したと見做され、刀を提げた刑吏が劉備の夫人たちの居所へ踏み込んだ。しかし扉を蹴破った彼らは顔を見合わせた。

「いないぞ」 

 使用人を残し、屋敷は空になっていた。



「どうやら上手くいったな、なあ孫乾」

 すでに孫乾と簡雍が夫人たちを脱出させていたのだった。一行は迎えに出てきた関羽の部隊と合流した。

 そして劉備は、また徐州で自立を図ることになるのである。


 ☆


 劉備の裏切りに激怒した曹操は、張遼を中心とした機動軍を送り込み、速戦して劉備軍を打ち破った。

 軍は四散し、劉備は袁紹のもとへ奔り、張飛は行方不明になった。


 そして関羽は劉備の夫人たちと共に曹操軍の捕虜となった。

 やはりどうしても、糜夫人と甘夫人は人質となる運命にあるようだった。




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