第42話 献帝、曹操の命を狙う

 劉備、字を玄徳という。

 漢の中山靖王劉勝の末裔(自称)にして左将軍である。系図をたどっていくと、現皇帝にとって叔父の世代に当たる事から、 皇叔こうしゅくとも呼ばれている。

 しかし劉備はこれまで定まった領地を持ったことがない。

 やっと手にした徐州も、呂布と曹操の紛争に巻き込まれた結果、すぐに失うことになる。その後は各地の群雄の間を点々とした揚げ句、荊州へながれ着く事になったのである。



 徐州で呂布を討った戦いの後、劉備は一時、曹操の許に身を寄せていた。

 そのまま徐州に留まることが出来なかったのは、曹操の側近である荀彧じゅんいくや参謀の程昱ていいくが猛反対したからであると云われる。

 いい加減そうに見えて、不思議な人望がある劉備を野放しにするのは危険であると二人は判断したのだ。

 そのため曹操は劉備を許都に招き、左将軍や皇叔などという、名誉はともかく、全く実権のない呼称を与えることで飼い殺しを目論んだのである。


 そして劉備も曹操の真意に気付いていた。



「兄者、また曹操に呼ばれたのか」

 外出の準備をしている劉備に張飛は呼びかけた。ここの所、連日のように酒宴や詩を賦す会などに招かれているのだ。

 当然、詩などに縁がない劉備は、曹操の息子の曹丕そうひ曹植そうしょくの作った詩を、さも感動した振りで聞いているだけだった。

「酒盛りなら、おれも付き合うぞ」


「いやいや。今日は献帝陛下が、どうしてもわしの顔を見たいと仰っているのだそうだ」

 献帝側近の董承とうしょうがそう伝えてきたのだ。

 この董承という男は、車騎将軍という軍の最高位にある。ただ軍の実権は曹操が握っているため、劉備の左将軍と同じくただの名誉職と言ってよかった。

「董承どのが。……なにやら、きな臭いな」

 関羽は首をひねった。


「まあまあ、関羽。そう心配するな。陛下と懇談をするだけだから」

 へらへらと笑いながら、劉備は宮廷へあがって行った。だが劉備はすぐに自分の間違いを知る事になる。


 ☆


 漢帝国の皇帝劉協は年齢的にはまだ少年の域を出ない。しかし董卓にその聡明さを認められていただけに、鋭い観察眼は常に家臣たちに向いている。そして自分の立場についても冷静に理解していた。


 新たに丞相となった曹操の傀儡である限り、自分の身に危害が及ぶ恐れはない事も分かっていた。

「だがこれでは、朕は皇帝どころか籠の中の鳥でしかない。それも、曹操に教えられた言葉を喋るだけの鸚鵡オウムだ」

 心を許した董承ら側近の前で、献帝はそうこぼした。


「誰ぞ、朕を自由にしてくれるものはおらぬか」

 涙ぐむ主君を前にして、董承は一人の男の名前を出したのだろう。


「陛下には叔父ぎみがいらっしゃいます」と。

 劉備に白羽の矢が立った瞬間である。

 



 広大な謁見の間には、献帝と董承、その他に数人の廷臣だけが待っていた。

「がらんとしているな」

 劉備は小さく嘆息した。さしもの漢帝国も、ここまで寂れてしまったものか。


「よく来てくれた、叔父どの」

「ははっ」

 立ち上がって迎える献帝を見た劉備は、微かに既視感を覚えた。しかしすぐに拝跪の礼をとる。

「ああ、叔父どの。礼など要らぬことでありますぞ」

 長幼の序を重んじる儒教において、目上にあたる劉備は家臣としての扱いは必要とされない。献帝は座を降り、劉備の手をとると席にいざなった。


 会見の内容は文字通り当たり障りのないものだった。献帝は劉備が転戦した話を聞いて目を輝かせ、妻妾を置き去りにして酷く叱られた話には腹を抱えて笑った。


「ああ、今日は楽しかった。これはその可哀そうな奥方に差し上げてください」

 献帝は美麗な宝玉で飾られた帯を劉備に贈った。

「かたじけない事にございます」


 その時、劉備は自分に向けられた鋭い視線に気付いた。それは僅かな数の廷臣のなかの一人からだった。

(あれが曹操の配下なのだろうな)

 しかし劉備は素知らぬ顔で広間を後にした。華歆かきんというその男は、じっと劉備の後ろ姿を見詰めていた。 


「これは、失敗したかもしれない」

 人目がない事を確かめて、劉備は唇をかんだ。こういった危機を察知する本能が、劉備を今日まで生き延びさせたと言っていい。

 詳細に見るまでもない。帯の縫い目が一部分だけ荒い。明らかに、中に何かが縫い込まれているに違いない。それはおそらく、密書であろう。


「まずいぞ。どうしたらいい」

 献帝の置かれた環境を鑑みれば、これに書かれてある内容は想像がつく。

「丞相、曹操の排除か」

 思わず口にした劉備は、慌てて周囲を見回した。


 

 その日の夕刻、今度は曹操から酒宴の誘いがあった。

「よ、よ、喜んで伺いますぞ」

 冷や汗を滝のように流しながら、劉備は満面の笑顔をつくり使者に答えた。

「ふむ。羨ましいのお、兄者ばっかり」

 拗ねて口を尖らせる張飛を、関羽が後ろからはたいている。


 帰りがけに使者は振り向いて言った。

「そうそう。劉備どのは陛下から見事な帯を賜ったとか。ぜひ拝見したいものだと、丞相が申しておりました」

 さーっ、と劉備の顔から血の気が引いた。


「あ、あれは、その。……ああ、そうだ。こ、この張飛が食べてしまいまして。明日になれば破片なりと出てくるかも知れませんが」

「ははぁ、義弟どのが。なら、仕方ありませんな」

 使者は怪訝そうな顔になったが、肩を竦めて帰っていった。


「やれやれ、なんとか誤魔化せたぞ」

 胸を撫でおろす劉備を、張飛は不穏な表情で見た。

「気のせいかな、おれは少し気分が悪いぞ。兄者」

「そうか。なら丞相のところから良い酒を貰ってきてやる」

 途端に張飛は明るい顔になる。

「おお。ならば、よしとするぞ。さすが兄者だのう」


 だが、屋敷を出た劉備は大きくため息をついた。

「どこまで知っているのだ、曹操め」


 曹操がたびたび自邸で酒宴を催すのも、劉備を監視するために他ならない。もし酒に酔い言質を取られれば、そのまま身の破滅が待っている。


 何度目かのため息のあと、劉備は曹操の屋敷の前に立った。





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