第41話 憎悪と愛欲の迷宮
荊州太守劉表の長子、
美丈夫であること以外には軍事、政治のどちらにも目立った功はないが、長子という事もあり、劉表の後継者となるのは当然と思われていた。
その状況が一変したのは、彼の生母、陳夫人が不審死を遂げた事による。
夜半、俄かに苦しみだし大量の血を吐いた彼女は、侍医が駆け付け脈をとった時には、既に絶命していたのである。
「陳夫人は毒を盛られたのではないか」
当初そういったうわさが流れたが、すぐにそれは新たなうわさによって掻き消された。あれは、
巫蟲の術とは、身に毒をもつ虫やヘビの類をひとつ容器に入れて殺し合わせ、最後に生き残ったものを
「陳夫人が劉表さまを狙ったのだ」
時を同じくして、そんな風評が城内に流れ始めた。それは事もあろうに、陳夫人が夫の劉表に対し巫蟲の術を用い、失敗したというのである。
陳夫人は劉表を亡きものにし、息子の劉琦を太守に就けようとした毒婦であるとされた。
だが城内の人々は黙って目配せし合う。
誰もがその噂の出所が、陳夫人の死によって正妻となった蔡夫人の周辺からだと知っていた。もはや真相は火を見るより明らかなのにも関わらず、人々は沈黙した。
蔡夫人の弟である
蔡夫人は常に劉表の側にあり、日々劉琦を貶める言辞を彼の耳に入れ続ける。劉表も次第に劉琦を遠ざけ始めた。
こうして後継者争いは次男、劉琮有利に傾いていく事になった。
☆
眉目秀麗だが、どこか影が薄い男。
貂蝉が劉琦から受けた印象である。知的で温厚というのが世評ではあるが、貂蝉の見る限りそれはただ優柔不断で文弱としか思えなかった。
母親が殺され、自分は後継者争いから脱落しようとしているのに、何一つ行動を起こそうともしない。
今日も庭園にひとり佇み、空を見上げ涙している。
「ああ。佳人とあの雲に乗り、蓬莱の彼方まで飛んでいけたらよいのに」
廊下を通りかかった貂蝉と
「こんな太守の息子などという身分を捨て、仙人のような暮らしがしたいものだ」
劉琦は彼女たちに聞こえるよう、わざと大声で慨嘆しているようだ。
「いつ見ても素敵ですわ、劉琦さま」
「あの憂いを帯びたお顔が最高」
うっとりとした瞳で劉琦を見詰める女官たちの中で、貂蝉と朱茗だけが無表情だった。
「あの方はいつも、あんな調子なのですか」
貂蝉はとなりの朱茗にささやきかける。なぜあれで女官に人気があるのか、貂蝉には分からない。
「女連れで仙人になりたいなどと、正気なのでしょうか」
朱茗は仏頂面のまま頷いた。
「どんな馬鹿げた事でも、願うのは勝手ですからね」
これには貂蝉も苦笑するしかない。隠遁生活を望むというよりは、単に現状から逃げ出したいだけのようだ。とても漢王朝のために働く気概は感じられない。
「ところで皆さま。弟の劉琮さまの事はどう思っておられるのです」
あっちはいかにも性格が悪そうだが、行動力は兄の劉琦よりは有るようだ。だが貂蝉が問いかけると、女官たちは顔を見合わせ言葉を濁す。
「ええ。劉琮さまは、昼間は男らしいのですが……ねえ」
女官たちの苦笑いを含んだ微妙な表情に、貂蝉は首をかしげた。
「あの方は強引なだけで、
朱茗はまったく表情を変えず、劉琮を切って捨てる。
「やだ朱茗さま。そんなはっきり下手だと仰っては、可哀そうです」
「おまけに、早いうえにしつこいだなんて、ねえ」
女官たちはくすくすと笑う。「早い」「しつこい」「下手」の三拍子そろった男らしい。しかもそれに自分では全く気付いていないという。
「だから、ついた綽名が『若殿のひとりよがり』ですもの」
みなで大笑いしている。どうやら朱茗を除く多くの女官が、その事実を身体で知っているらしい。
「国を治めるのは女を抱くように、と申しますから。あの方もおよそ先は見えていると申せましょう」
冷たい声で朱茗がつぶやく。貂蝉は思わず彼女の顔を覗き込んだ。
「え?」
「何か」
朱茗は無表情のまま目を細めた。
「いえ。なんでもありません」
劉琦と劉琮。どちらにしても漢王朝を支え得る人物ではないようだ。貂蝉は天を仰ぎ、密かにため息をついた。
☆
薄暗い
「殿は、琮を後継ぎにすることを決断なさったの?」
豊かな胸を揉ませながら、蔡夫人は男の耳元に口を寄せた。身体は年齢によってやや張りを失ったとはいえ、その分、蠱惑的な薫りを漂わせている。
そのまま男の耳朶を軽く咬む。
「それは間違いない。劉琦は襄陽から
男は自分とよく似た容貌の女を強く抱きしめた。
「これで満足か、姉上。次の荊州太守は俺たちの子、劉琮だ」
「だめよ、滅多な事を言っては……あっ」
蔡夫人はちいさく声をあげた。弟、蔡瑁の熱く滾ったものが彼女の下腹部に押し付けられていた。
「もう。また、こんなにして……」
彼女はそれに手を添え、自分のなかに導き入れる。再び蔡瑁は姉を犯しはじめた。
☆
薄汚れた軍団が襄陽の城門前に現れた。
徐州から冀州。そしてこの荊州と、転々と渡り歩いてきた劉備たちだった。
山賊か野盗のような姿を目にした城兵たちは急ぎ集まってきた。隊長の合図があればいつでも放てるよう、弓を引き絞る。
劉備はそれを気にする素振りもなく、城頭を振り仰いだ。
「これはこれは手厚い歓迎。いたみ入りますぞ、襄陽の城兵諸君」
劉備は馬上、声を張り上げた。戦場で鍛えただけあって意外なほど美声である。攻撃を掛けようとした城兵も気を呑まれ、顔を見合わせている。
「ここに居るは、漢の宜城亭候にして豫州の牧、そして左将軍の劉備、字は玄徳と申すもの。今日は荊州の太守、劉表どのへご挨拶に伺った。疾く城門を開けられよ」
どうやら賊ではないと判断したのだろう。ゆるゆると城門が開いた。
こうして荊州はまたひとつ、厄介の種を抱え込む事になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます