第40話 貂蝉、襄陽城へはいる

 荊州の太守劉表という男は、身長八尺(190cm)と容姿に優れ、若い頃から名声があった。その当時高名だった彼の友人ら七人とあわせ『八俊』と呼ばれている。

 その名声を買われ荊州の刺史として着任したのだが、当時の荊州は各地で反乱が頻発し、南陽からは袁術がしきりと侵攻している不安定な状態だった。


 劉表は土地の有力者、蒯越かいえつの献策によって、反抗的な者どもを偽り集め、全ての首を斬ってしまった。これにより荊州は一時に穏やかになったのである。やや文官的な印象のある劉表だが、就任当初はこうした果断な処置をとる事を厭わなかった。

 それが対外的に意欲を失い、退嬰的になったのはそう昔の事ではない。


 曹操と袁紹が対峙した際の事である。北上し曹操の本拠地である許都を衝いて欲しいという、袁紹からの要請を受けた劉表は、州境まで兵を進めたが、ついに参戦することは無かった。

 結果、敗退した袁紹は北の幽州に逃走し、その地で死んだ。


 華北において最大勢力となった曹操が次に目を付けたのは、劉表の治める荊州だった。動かなかったとはいえ、袁紹の同盟者であったからには当然の事である。

 曹操は兵馬、軍船を整え、着々と南征の準備を進めていた。


 ☆


 出来上がったうどんを口にした貂蝉は、小さく何度も頷いた。

「こんどは良いです。滑らかさが全然違って、最初よりすごく美味しくなりました。やはり打つ力加減で、仕上がりが変わりますね」


 貂蝉は諸葛孔明の家を訪ね、黄夫人こと黄 蓮理と、うどんの味見をしているのだった。

「本当だ。これならやっと、うどんの名に値します」

 黄夫人も満足げに麺をすすっている。そして彼女の背後では通称 ”木人” 、つまり人型うどん製造機が、ばたばたと手足を動かしていた。


「おーい。おれは、いつまでこれを踏んでいればいいんだ」

 泣きそうな声で徐庶が叫んだ。

「もう、足が動かないんだけど」


 彼女たちが機械を調整しながら何度もうどんを作り直すあいだ、徐庶は木人に繋がったを、ひたすら踏み続けていたのだ。左右に手摺りがあるとはいえ、これは男でも重労働だった。


「あ、忘れてました。もういいですよ。徐庶さんも食べます?」

 明るく屈託のない声で黄夫人が呼び掛ける。

「あたりまえだ。だれのお蔭でうどんが食えていると思うのだ」

 その場に崩れ落ちた徐庶は、這うようにして女たちのところへ向かう。


「やだ、聞きましたか貂蝉さま。だれのお蔭でごはんが食えているのか、ですってよ」

「信じられないです。ああいう思いあがった輩って、今でもいるのですね」

「調子にのった男って嫌よねぇ。ほんと何様のつもりかしら」

「ええ。蓮理さま」

 急に発言が辛辣になった。徐庶は泣きそうになった。


「なんで朝からふいごを踏み続けて、ここまで言われなきゃならんのです」

 息も絶え絶えで、徐庶は抗議する。


「あれ。もしかして徐庶さん、怒ってらっしゃいますか」

 黄夫人が不思議そうに首をかしげる。


「これが歓喜に打ち震えているように見えますか」

 念のため言っておくと、この脚が震えているのは普通に痙攣してるのだ。


「ええっ、孔明さまなら、もっと酷いことを言ってくれと、逆に叱られますのに」


 徐庶は沈黙した。ちまたでは「孔明の嫁取りを真似するな」と言われているが、それは黄夫人の容貌に問題ありという意味だ。この当時メガネを掛けている女性などいないので気味悪がられているのである。

 だが、真の問題はそこには無かったようだ。

「孔明。やつの性癖はどうなっているのだ」



「貂蝉さま。これをお持ちください」

 帰り際、黄夫人は一通の手紙を貂蝉に手渡した。

「叔母への紹介状です。襄陽で官女として働きたいとおっしゃっていたでしょう」

 黄夫人の母は、劉表の妻である蔡夫人の姉なのである。

「ありがとうございます。蓮理さま」

「いいんです。……ああ、この男をちゃんと連れて帰ってあげて下さいね」

 そう言うと、壁にすがりよろよろと立ち上がる徐庶を見た。


「膝がわらって歩けないのだ。すまん貂蝉、肩を貸してくれ」

 その時、庭で馬の嘶く声が大きく響いた。蹄を踏み鳴らす地響きで、家が小刻みに揺れている。

「赤兎さんが怒ってますよ。どうします」

「あ、自分で歩いて帰りますので結構」

 肩など借りて外に出たら、赤兎馬に蹴り殺されそうだ。


 ☆


 あまり黄夫人とは似ていないな。

 劉表の奥方、蔡夫人に会った印象だ。ややタレ目がちの黄夫人に対し、この人は鋭さすら感じられる切れ長の目をしている。

「そなた、あの王允さまの養女であったか」

 貂蝉は黙って頭をさげた。


「いいでしょう。朱茗しゅめい、この娘を奥の詰め所へ案内なさい。よくここでの仕来りを教え込むのですよ」

 朱茗と呼ばれた中年の女官は無表情に、貂蝉の前に立った。

「こちらへ」


 渡り廊下の途中で若い男の一団とすれ違う。貂蝉は朱茗にならい、隅で身を屈める。

 下品に笑いながら通り過ぎようとした男が立ち止まった。

「おい、そこの若い女」

「わたしですか」

 朱茗が無表情に顔を上げる。


「ちっ、おめえじゃねえよ。そっちの女だ。ちょっと顔をよく見せろ」

 男は貂蝉の顎に手をかけ、上を向かせる。


「へえ。名前はなんていう」

「今日から蔡夫人付きの女官になりました、貂蝉です」

 怒りを押し殺し、静かな声で答える。


「貂蝉? 変な名だな。あははは」

 その男は調子はずれの大声で笑う。

「なあ、そうだろう。なあ?」

 周囲の追従笑いがそれに続く。


 思わず貂蝉の右手が、左の袖口に伸びた。

 そして唇を噛む。今日は短刀を仕込んでいなかったのだ。


「劉琮さま。お戯れが過ぎます」

 感情の籠らない声で朱茗が窘める。


「うるせえよ、婆あ。まあいい、貂蝉。今日からお前は俺のものだ。いいな」

「それならば奥様の許可を取って頂きますよう」

 ちっ、と劉琮は舌打ちした。あくまでも表情を表さない朱茗を憎々しげに睨む。


「ああ、そうしよう。……母上はおれの言う事ならすぐにきいてくれるからな。ついでにお前も馘首くびにしてやる」


 長兄の劉琦をさし置き、次期当主として見られているこの若い男。

 彼が劉表の次男、劉琮だった。



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