第39話 人の名を持つ災厄
夕暮れ前になって、ひとしきり強い雨が襄陽の街に降った。何度も雷鳴が鳴り響く中を、人々は雨宿りの場所を探して大路を走って行く。
「お前の言った通りだったな、貂蝉」
徐庶は急に広がった厚い雲を見上げ言った。早めにどこか屋根のある場所へ、という貂蝉の言葉に従い、いち早く商家の軒下に駆け込んだ二人は、辛うじてずぶ濡れになるのを免れていた。
「雲の形を見れば分かります」
一方の貂蝉は素っ気ない。彼女にしてみれば雨の降る気配というのは、前方から人が歩いて来るのを見るのと同じくらい明らかな事のようだった。
「おやおや、ひどい降りになりましたな」
店の奥から老人が声をかける。店の主人らしいその男に徐庶は一礼した。
「ええ。急に雨が降り始めました。客ではなくて申し訳ない」
「それはお構いなく。このような時はお互い様ですからな」
一礼する徐庶には目もくれず、その老人は貂蝉を見詰めている。好色さの欠片もない、まるで物を値踏みするような老人の視線に貂蝉は違和感を覚えた。
「ところで、ここは」
徐庶は店内を見回した。入り口から想像するより遥かに奥行きが深く、ひんやりとした空気が、薄暗い店の奥から流れて来る。
貂蝉と徐庶は思わず身体を震わせた。
「この店は何でも扱っております。物も……そして人も」
「人、ですって」
貂蝉は目を大きく見開いた。
☆
「いやこれは。そのような顔をなさらずとも手前どもは人身売買などしておりませんよ。いわゆる
確かに、大勢の使用人を収容できるだけの構えである。
「でもそれだけでは無いのでしょう?」
「ええ。もちろん米麦、馬、武具も取り扱います。以前は華北の琢県の辺りで商売をしておりましてな。劉備という方にも、大変お世話になったものです」
天井を仰いだ老人は、どこか皮肉な笑みを浮かべた。
「ほう、劉備。今は漢の左将軍になられたと聞きましたが」
貂蝉はぴくりと身体を震わせた。徐州で別れたあと劉備は曹操の客将となり、曹操の本拠地、許都へ移ったいう。
「どうした貂蝉」
訝し気に徐庶が顔を覗き込む。
献帝を守護するため皇族の末裔として期待する一方で、呂布を滅ぼした曹操に加担した劉備には複雑な思いを隠し切れない。
巷間いわれている程の人格者かどうか怪しいが、決して悪人ではない。貂蝉はそう自分を納得させることにした。
「あの劉備という男は」
膝においた張 世平の握り拳が震えはじめた。頬につっと涙が流れた。
「なんと、馬と兵士の代金を踏み倒して行きおったのです。おかげで私は危うく破産するところでした。今度会ったら、必ず倍にして取り返してくれましょうぞ」
どうやら劉備は、貂蝉の想像以上に悪党だったらしい。
「雨宿り賃と言っては何ですが、面白いお話でもございませんか。こういった商売をしておりますと、各地の情報というものがとても有益なのです」
「なるほど。何かあるかい、貂蝉」
さあ、と貂蝉は小首をかしげた。
「あなたが人殺しをして追われている件とか、ですか」
「そんな事は言わなくていいです」
だが何かお礼代わりに話をするとしても、董卓は実は私が殺害しました、などと言えよう筈も無い。
貂蝉は徐州の下邳城攻防について話す事にした。もちろん自分は捕虜となっていた事にしてである。
圧倒的な曹操軍に寡兵で立ち向かう呂布と張遼、高順。裏切りによる下邳城の陥落。そして、かすかな意識の中で見た、最期の呂布の姿。
話しながら、貂蝉は目の前がぼんやりと滲んでいくのを感じた。
「そうですか。さすがは呂布将軍。みごとな最期だったのですね」
「ええ。それは立派に……」
嗚咽のなか、貂蝉はやっとそう答えた。
雨があがった。
☆
生々流転を地で行く男、劉備玄徳。今日も出るのはため息ばかりだった。
「ああ、やはり曹操に背くのではなかった」
徐州陥落後、劉備は曹操とともに許都へ入った。しかし曹操が去った徐州では賊の蜂起が相次ぐ。賊徒鎮圧を名目として、再び旧所領へ赴いた劉備はその地で曹操に反旗を翻し、自立を企てたのだ。
劉備を慕う徐州の臣民に太守への就任を求められたとは云え、これは曹操への裏切り行為に他ならない。
激怒した曹操によって劉備軍は粉砕され、糜夫人らを守護していた関羽が捕虜となるほどの大敗を喫した。
劉備は曹操と敵対している袁紹を頼り、冀州へと逃亡した。
しかし官渡の地において曹操、袁紹軍は激突し、袁紹は敗北した。北の幽州へ後退する袁紹と袂を分かち、劉備は荊州の劉表の許へ向かうことにしたのである。
ここに来て劉備の存在は疫病神に近いものになっている。赴く先々で敗北を撒き散らしているのである。
捕虜となった関羽は、曹操の将として袁紹麾下の猛将、顔良・文醜を討つという莫大な戦功を挙げた。そのまま曹操軍に留まるかと思えた関羽だったが、糜夫人たちを連れ荊州方面へと奔り、州境の小さな
「みな無事でよかった。心配しておったぞ」
涙を流し、糜夫人と甘夫人の手をとる劉備。だがその彼を見る夫人たちの視線は冷たい。
「大丈夫ですよ、劉備さま。こんな事はもう……慣れっこですからねっ!」
敗戦のたびに置き去りにされる二人は、そそくさと自室へ籠ってしまう。
「ああ。力が無いというのは悲しいのう」
めそめそと泣いているが、そこは「妻子は衣服のようなもの」が信条の劉備である。後の歴史を見る限り、これで懲りた様子は全くない。
「さあ、それでは張り切って襄陽を目指そうではないか」
劉備は意気揚々と荊州の州都、襄陽へ向け馬を進めた。華北の戦乱を免れた荊州に、生ける災厄が迫りつつあった。
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