第38話 竜は襄陽郊外に伏す
襄陽の郊外に小高い丘がある。
のちに
「一朝、
やたらと背の高い男が鼻歌をうたいながら畑を耕している。その歌詞をよく聞けば春秋時代の故事を詠った『
男は整った顔に陶然とした表情を浮かべ、一心に鍬を振り下ろしている。
その隣では、よく似た容貌の少年が迷惑そうに顔をしかめていた。
「兄さん、そこは畑じゃありません。道を掘り起こしてどうするんですか」
「いやいや、
話がかみ合わない。少年は額を押えた。
「その歌ですよ、最大の問題は。兄さんの調子はずれの歌を聞いてると仕事が進みません。家で食事の準備でもしていて下さい」
「ふむ。わたしの主食は
どんな仙人だ。そう言いながら、ゆうべも何かつまみ食いしていたじゃないか。少年はため息をついた。
まあ、この兄に下手な料理などされても後始末に困るので、仙人ごっこをしてくれている方が助かるのも事実だった。
「そうか。では戻って、天地乾坤・落花流水、龍脈の流れなどについて思いを馳せるとしよう。思索こそわたしの食事の主菜であるからな」
「言っている意味が自分で分かっていますか、兄さん」
「ほほほ」
笑いながらその男は家に戻っていく。
男の名は諸葛亮、字を孔明という。のちに蜀漢の丞相になるのだが、この時は本人を含め、それを予想したものは誰もいなかった。
☆
濡らした砥石の上を、鈍く光る刃をゆっくりと滑らせる。
貂蝉は細い指先で短刀を一定の角度に保ち、しゅっしゅっと規則的な音をたてて研ぎあげていく。
「その短刀は何で出来ているのだ」
覗き込んだ徐庶は首をかしげた。この当時の兵器は主に青銅製である。高温で煮溶かした金属を型に流し入れ、冷えたところを削って刃をつけるのだ。
しかし、いかに丁寧に研いでも、貂蝉が持っている短刀ほどの切れ味を持たせることは不可能だった。それに切れ味のみならず、ここまで薄くしなやかな物は徐庶も見た事がなかった。
「失礼します」
そう言うと、貂蝉は徐庶の頭に手を伸ばした。
ぷち、と一本の髪の毛を抜き取る。
「いて。何をするんだ。禿げたらどうしてくれる」
貂蝉はその髪の毛を刃の前に添え、ふっと息をふきかけた。
「おおう」
目を瞠った徐庶は呻く。髪の毛は両断され、空中に舞った。
「これは特殊な鋼で造られています。その身体で試してみますか」
これだけ鋭いと、斬られても痛みを感じないらしいです、と、まんざら冗談でもない口調で貂蝉は言った。
「いや。遠慮しておく」
徐庶は頬を引きつらせて苦笑した。
「さあ、準備はできました」
そう言って貂蝉は、短刀を袖口の鞘にしまい込んだ。
「お、おう。では諸葛孔明に会いにいくか。だけど、あの、貂蝉……」
「なんでしょう」
貂蝉は小首をかしげた。
「いや、いい」
なぜ短刀を研いだのか訊こうと思った徐庶は口をつぐんだ。
徐庶は貂蝉が暗殺者であった事は知らない。だが彼女が時折見せる不穏な表情から、何か感じているのかもしれない。
「孔明とは初対面だよな、貂蝉」
「ええ」
さすがに、初めて会う人間を害する理由は無いだろう、徐庶は自分を納得させることにした。
「ですが、変態なのでしょう?」
「ああ、そうだったな……それでか」
☆
貂蝉と徐庶が諸葛孔明の家を訪れると、弟の諸葛均が顔を出した。
「徐庶さま。
一度寝てしまうと家が火事になっても起きないのだという。
「ふーん。ならば、中で起きるのを待たせてもらうぞ」
徐庶は門をくぐって行った。貂蝉もあわてて後につづく。
「お邪魔してもよろしいのですか、均さま」
顔を赤らめ、ぽーっと貂蝉を見ていた均は、彼女に呼び掛けられて我に返った。
「え、ええ。大丈夫です。お、お、お茶くらいしかありませんけど」
そう言うと、台所へ駆け込んでいった。
「ははぁ、これが孔明さまですか」
貂蝉は部屋の真ん中で長くなっている男を見下ろした。
「すみません。昼食を食べ終わったら、そのまま床で寝てしまったんです」
お茶を持って来た均が頭を下げた。
「……子供か」
徐庶は呟いた。
貂蝉はしゃがみ込み、孔明の顔を覗き込んだ。
「涙の跡があります」
「はは、嘘だろ」
本当です、と貂蝉は孔明の頬をつつく。
ぱっちりと孔明の目が開いた。貂蝉は思わず後ずさる。
「おおー黄氏、帰ってきてくれたのかーっ!」
「きゃーーーーーっ!」
はね起きた孔明に勢いよく抱きつかれ、貂蝉は悲鳴をあげた。
「兄さん、そのひとは違います。義姉さんじゃありませんから!」
「え、だってこの貧相な胸は黄氏と同じだ……ぐはっ!」
床のうえで、ぶすぶすと白煙をあげる孔明を徐庶と均は見下ろす。ふたりの首筋は一面に鳥肌がたっていた。
「ま、まあ、これは自業自得としか言いようがないな。な、均よ」
「そう、そうですよ。悪いのは全部兄です。だから落ち着いてください、貂蝉さま」
ふーふーと肩で息をする貂蝉を必死で宥める。
☆
「なるほど。夫婦喧嘩をなさっている最中だったのですね」
貂蝉はお茶を一口すする。美味しいお茶だった。
「面目ない。だが夕食のときに、餃子くらい自分で作ったらどうかな、と言っただけなのだけどな」
青アザのできた顔で孔明は頭をかいた。
「兄さんは必ず一言多いのですよ」
それに激怒した黄氏は実家へ帰ってしまったのだ。
ふむ、と頷いた貂蝉は立ち上がり、孔明の胸倉を掴む。
「孔明さま、台所へおいで下さい。餃子作りがどれほど大変か、じっくりと教えてさしあげます」
「ひ、ひえー」
「ただいま戻りました」
丸いメガネをかけた小柄な女性が玄関をくぐった。彼女が孔明の奥さん、黄氏だった。父親の黄承彦に説得され、仕方なく帰って来たのだ。
入った途端にくんくん、と鼻をひくつかせる。
「あら、良い匂い」
「ああっ、義姉さん! 義姉さんが帰ってこられました!」
気付いた均が声をあげる。
「なに? 戻ってくれたか、黄氏。よかった、お前のために水餃子を作ったところなのだ」
涙と鼻水を垂らしながら、孔明が這うようにして出迎える。まだ少し硬かった黄氏の表情がやっとほころんだ。
「この貂蝉どのに教えてもらって、わたしが作ったのだぞ。さあ食べてくれ、きっとお前が作ったのよりも美味しいと思うから」
黄氏の笑顔がそのまま固まった。くるりと背をむける。
「なぜだ、なぜまた出ていったのだ。黄氏ーっ!」
泣き崩れる孔明に、貂蝉と徐庶は顔を見合わせてため息をついた。
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