第37話 戦乱の華北、陰謀の華南

 徐州を下し急速に勢力を伸ばす曹操に対し、袁紹は焦りを隠せずにいた。

 特に気に入らないのは、献帝を擁し各地の諸侯に対し官位を与えている事だった。名目上は漢の献帝による除目ではあるが、その実これが曹操から発されているのは誰の目にも明らかだったからである。


「曹操め。朝廷の権威を利用し、諸侯を味方に付けようとするとは」

 喚き散らす袁紹を、謀臣の沮授そじゅは悲し気に見た。沮授は献帝がまだ長安に在る頃から、ここぎょうへ迎え取るよう何度も献策していた。しかし袁紹はそれを無用の事と、ことごとく退けてきたのである。


「わしは最初から陛下を迎えるべきだと思っておったのだ。やはり荀彧を手放すのではなかった。あの男がいればもっと適切な助言をしてくれたであろうものを」

 掌を返したように側近の無能を嘆く袁紹は、彼らの前でこれ見よがしにため息をついた。

(これでは荀彧が曹操陣営に走ったのも当然だ)

 沮授は俯いたまま唇をかんだ。


「今こそ曹操に対し戦端を開くべきかと存じます」

 そう言って進み出た男がいる。やや地味な印象の沮授に比べ、堂々とした体格と朗々たる弁舌で、この頃とみに袁紹のお気に入りとなっている郭図かくとという参謀である。献帝を迎えるという沮授の案に強硬に反対したのもこの郭図だという。


「大軍を集結し、一気に片をつけるのです。何故、献帝などに拘る必要がありましょうや。退嬰策しか出せぬような者は謀臣の名に値しませんぞ」

 そういうと、露骨に沮授の方を見て唇をゆがめた。


「そうして、荊州の劉表にも参戦を要請するのです。南北から挟み撃ちにすれば如何に曹操といえど、一たまりもありますまい」

 得意げに郭図は袁紹に言上した。

「妙案である!」

 袁紹は手を打って立ち上がった。

「これで我が軍の勝利は疑いない。見事な策であるぞ、郭図」


 大軍による速戦即決、劉表との提携?

 沮授は目の前が昏くなった。これは今の袁紹軍が一番避けなくてはならない事だ。


「お待ちください。確かに兵糧の備蓄状況では曹操の軍を大きく上回っておりましょう。しかし曹操は戦上手で有名です。短期決戦は避けねばなりません。長期対陣こそ有効な戦略かと存じます」

 その言葉を聞きながら、郭図は顔色を失い、ぶるぶる震えはじめた。

「お、おのれ……沮授」


「さらに劉表の挙兵に期待するなど、まったくの無意味。現在、劉表は病んでおります。後継者問題で外征どころではない筈です」

「黙れ、この臆病者め。沮授どのは、我が軍が負けると申すのか」

 郭図は沮授を一喝し、袁紹に直接訴える。


「このような怯者きょうしゃの言を聞いてはなりませんぞ。我らは王者の軍でございます。戦えば必ず勝つ。いや、勝たねばならぬのです。その我らに劉表とて従わない訳がございません!」

「うむ。郭図の言うとおりだ。みなの者、出陣の用意をせよ」

 続々と文武の諸官は退出していく。


 そしてただひとり取り残された沮授は、刑吏によってそのまま投獄された。


 ☆


「二者択一にもかかわらず、毎回必ず外れを引く」という不運な人は一定数存在する。こういった人々は、大抵の場合行ったことが必ず裏目に出るものである。

 単に個人の問題であれば残念な人、という評価だけで済むが、これが地位のある人間であった場合、不運はその人に留まらない。

 袁紹に信任された郭図という参謀は、見事にこの条件に当てはまってしまっている。袁紹の運も尽きたというべきだろう。



「ひとまず急場の難は凌げたと言えましょう」

 荀彧も安堵の表情を浮かべた。彼が最も懸念していたのは、袁紹が長期戦を目論み堅陣を築く事だった。そして徐々に圧迫された場合、曹操軍は食料が尽きて立ち枯れてしまっただろう。


「それでは行って来る。後は任せるぞ、荀彧」

 曹操は、戦術上の参謀である荀攸じゅんゆう郭嘉かくかを引き連れ袁紹の迎撃に向かった。

 曹操と袁紹。それぞれの陣営において人材の豊富さは甲乙つけがたい。決して袁紹の配下に人なしとは言えない。だが両者の決定的な差異を、荀彧は一言で言い表したことがある。


「袁紹は、他人の意見を訊く事を好むが、それを取捨選択する能力はない」

 というのである。


 曹操と袁紹の最終決戦である『官渡の戦い』の帰趨は、開戦前より明らかになっていた、というべきだろう。


 ☆


 そんな華北の情勢とは対照的に、見かけ上とは言え華南地方は平穏を保っている。袁術亡き後の江東こそ混乱が続くが、それも孫策によって収拾されつつあった。

「まさに荊州は別天地よな」

 崔州平は茶をすすりながら目を細めた。同じ卓についた貂蝉と徐庶は、そんな彼の様子を複雑な表情で眺めている。

 

「そうだ、今日は孔明に会ってくるといい。丁度帰って来ているらしいぞ」

 おお、と徐庶の顔が輝いた。

「それはいい。貂蝉どのも一緒にいきませんか」


「どなたですか、その孔明さまと仰るのは」

 貂蝉は首をかしげた。

「ああ、ただの変態ですけどね」

 徐庶と崔州平は異口同音に言った。


 なぜ、そんな変態に会わせようとする。貂蝉は口のなかで呟いた。


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