第36話 銅銭怖い

 襄陽じょうようの街の賑わいは、これまで通り過ぎてきた小都市の比ではなかった。

 さすがに、人々が袖を拡げれば陽を遮り、汗をふるえば雨の如しとまで言われた斉国の都、臨淄りんしには及ばないにしても。


「落ち着いているようだが、こういう所は慣れているのか」

 赤兎馬を引きながら、徐庶は馬上の貂蝉を見やった。


「一応、洛陽の宮女だった事もあります」

 別に自慢する訳でもなく、貂蝉はのんびりと辺りを見回している。

 もちろん、それには理由があった。赤兎馬が歩を進めるたび、海が割れるように人々が途をあけているのだ。


「遠く、大秦ローマの伝承にもありそうですね。こういうのは」

「まあな」

 あれは確か神の奇跡で、こんな強引に途を開けさせた訳ではない。

 だが徐庶はその言葉は呑み込んだ。しばらく一緒に旅を続けて、この少女の性格はかなり分かってきていた。


「やはり余計な事を言わないのが、処世術の基本だな」

「はぁ?」

 貂蝉に睨まれて、徐庶は首をすくめた。


 ☆


「ここには昔の友達が移住しているんだ」

 へえ、と貂蝉は首をかしげた。

「すると犯罪者仲間ですか」


「違うよ。おれも好んで人殺しをした訳じゃない。やむに已まれず、いわば義侠心でやった事が、法律にそぐわなかっただけだ」

「それは正しかったと思いますか?」

 徐庶は貂蝉の真剣な表情に気圧された。


「正しい、とまでは言えないだろう。だが、決して間違ってはいないし、おれはそれを悔いていない」

 貂蝉はじっと徐庶の顔を見詰めた。そして小さく息をつく。

「……そうですよね」


 それっきり黙り込んだ貂蝉をのせて、赤兎は進んでいく。

 やがて、やや街の中心を外れた場所にある一軒の家の前に出た。

 徐庶が中に声をかける。

さい州平しゅうへい。おれだ、徐庶だ」


「まったく、お前はいつも突然やって来るな。事前に報せをよこせといつも言っているだろう」

 文句を言いながら奥から青年が出て来た。どこか表情に険がある。


「お前は、基本的には真面目ないい奴なのだが、そういう所がずぼらでいかんぞ」

 そして、門前に立ちはだかる怪物を見て目を丸くした。

「うわっ、なんだこれは」

 赤兎馬は不愉快そうに、ぶるると嘶いた。


「こちらは貂蝉どの。漢の司徒だった王允さまの娘さんだ」

 それを聞いた崔州平は、表情をあらため、厳かに頭を下げた。

「王允さまは漢王朝のために尽くされた方でした。わたしたち襄陽の者どもは、みな尊敬申し上げておりました」

 そこで貂蝉はふとある名前を思い出した。


「崔烈さまは、州平どのの御父上ではありませんか」

 かつて漢王朝の三公のひとつ、太尉たいいに就いていた男の名前だった。


 ところが崔州平は、あからさまに顔を曇らせた。

「あれは父などではありません。あんな銅臭どうしゅう大臣」

 聞くのも汚らわしい。そういって崔州平は首を振った。

 崔烈はかつて漢の太尉だったのは間違いない。だがそれは、売官によるものだった。つまり、朝廷が三公の位を売ったのである。


 各地で反乱が相次ぎ、地方の諸侯も軍閥化していく中で、朝廷への貢納が疎かになって行くのは自然の成り行きだった。

 結果、朝廷は百官を養うことすら出来ないほど貧窮していくことになる。


 その対策として、朝廷は官位を商品のように売りに出した。もちろん、競りにかけた訳ではない。形式上は財力が豊富な有力者に朝廷への献金を求めるのである。その見返りとして司徒、司空、太尉といった三公の位を与えるのだ。


 崔州平の父、崔烈もこうして太尉の位を得たのである。

 現代でも、金で国会議員の地位を得ようとする輩は後を絶たないが、崔烈の場合は決してそんな違法な賄賂によるもので無い事は確かである。


「だが散々な言われようだったな、あの頃は」

 同情を込めた徐庶の言葉に、崔州平は肩をすくめた。たとえ違法ではなくとも、称賛されるような行為でないのも確かだった。崔州平の家族まで、銅(銭)の臭いがする、と陰口を叩かれたものだ。

「金儲けの才しかない者が三公などおこがましい。それだけの事だ」


 地方官を歴任し莫大な財を築いた崔烈である。任地ではそれなりの治績をあげたのであろうが、中央で目立った功績をあげることはできなかった。

「だから、わたしは銭というのもが大嫌いなのだ。いや、怖いといってもいい」

 崔州平は、ひけらかす様に胸をはった。


「ほう」

 貂蝉は呟くと、懐から一枚の銅銭を取り出した。

「じゃあ、これはいかがです」

 崔州平の前に突き出す。


「お、おうっ。それは銭ではないか。止めてくれ、そんなものを見せないでくれ」

 顔の前に手をかざし、崔州平は後ずさる。本当にお金が嫌いらしい。

「これはちょっと面白いですね」

 貂蝉は顔をほころばせた。


「ああ、怖かった。だけど一枚より、束になった方がもっと恐ろしい」

 冷や汗を拭う崔州平のまえに、貂蝉は紐でくくった銭束を取り出した。

「ああ、止めて。怖い、漏らしそうだぁ」


「おい貂蝉。遊んでないで、部屋で休ませてもらおう」

 徐庶は下女を呼んで案内させる。

 銭束を崔州平の前に置き、貂蝉は徐庶の後を追った。

「おーい。これをどけてくれー」


 部屋をでた徐庶と貂蝉はすぐに壁に貼りつくようにして、部屋の中を伺う。

「どうしますかね。あの方」

 徐庶も笑いをかみ殺している。


 ひとり部屋に残された崔州平は、かがみ込むと、ためらわずその銭束を拾い上げた。そのまま平然と懐にしまおうとしている。

「あー、銭は怖いなー」

 などと、嘯いている。貂蝉と徐庶は顔を見合わせた。


「おい、崔州平。何をやっている」

 徐庶に声をかけられ、崔州平はその銭束を取り落とした。

「あ、いや。これは」

「お金が怖かったのですよね」

 貂蝉の目がすっと細くなった。


「あ、ああ。もちろんだとも……」

 てへへ、と崔州平は照れ笑いを浮かべた。

「でも今は、この銭が入るくらいの、大きな財布が怖い」


「崔州平さま。きっとあなた、お父さま似ですよ」


 ☆


 荊州の太守劉表が住む襄陽城の一角に、日の当たらない狭い部屋がある。灯りをともさないために、扉を閉めればほとんど真っ暗闇になる。その部屋の床には大きな穴が造られている。

 そしてその底では白いものが動いていた。衣装を剥がれた女官だ。

 暗闇にも白く浮かぶ裸身のうえには、多くの足を持つもの、細かな鱗に覆われたもの、丸い体に粘液を纏ったもの、口中に鋭い牙を持つものといった無数の毒蟲が這いまわっていた。

 毒蟲の牙が柔肌を穿つたび、女は苦悶の呻きをあげた。しかし舌を切られた女は言葉を発することはない。その声はやがて狂気を帯びたものになり、そして途絶えた。


 方術の一種であるが、毒虫を一つの壺に入れ、互いに争わせるのである。そして最後に生き残ったものを用いれば、祓うことのできぬ恐るべき呪詛が完成するのだという。

 この『巫蟲ふこの術』がここ襄陽で行われるようになったのは、つい最近の事であった。

 劉表が病み、その長子 劉琦りゅうきと、次子 劉琮りゅうそうの水面下での後継者争いがいよいよ激しくなった事と関連があるのは、言うまでもない。


 襄陽は落日を迎えているのかもしれなかった。



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