荊州の攻防
第35話 いかさま方士の末裔
後漢末というこの時代に限らず、市場というのは大勢の民衆が集まる場所である。そのため公開処刑などは、大抵こういった市場で行われた。そしてその後、呂布のようにそのまま首を晒される事も珍しくない。
貂蝉が通りかかったその街の市場にも一人の男が晒されていた。
太い杭を広場の地面に打ち込み、そこに縛り付けられている。時折周囲を見回しているので、まだ生きているのだと分かった。
足元に置かれた木板には、『この者の身元を知るものは名乗り出るように』との御触れが書き込んである。
「要するに、身元不明の犯罪者か」
貂蝉は杭に縛られた男を見上げた。
ならば珍しくもない。貂蝉は立ち去ろうとした。
「おい、待ってくれ。そこの女」
貂蝉は振り向きもせず、足を早めた。
「待ってくれ。お願いだ、美しいお嬢さん」
杭の男が情けない声を出した。貂蝉はやっと振り返った。
「それはわたしの事ですか」
「はい、もちろんあなたです。おそらく中華で一番美しい女神さま」
ふーん。貂蝉は腕組みをした。
「正直な男は嫌いじゃありませんけど」
それで? 貂蝉は顎をしゃくった。
「いや実はこの縄を切ってくれないかなー、と思ってさ」
「そして、わたしも犯罪者になれと」
あくまでも冷ややかな貂蝉の表情を見て、男は、あぁと天を仰いだ。
「ごめん、そこまでは言わない。ちょっと縄目を緩めるだけでいい」
「縄目を……?」
その言葉は貂蝉の記憶のどこかに引っ掛かった。
貂蝉は少しだけ表情を和らげ、改めてその男を見上げた。
まだ若い。貂蝉とそう変わりはないだろう。この年頃に特有のどこか世を拗ねた雰囲気を持ってはいるが、意外と真面目そうな男だった。
「いったい何をやったんですか」
「いや、ちょっと人殺しを」
悪びれもせず、しれっと答える。
見掛けに依らず極悪人だった。
「ああっ、待ってくれ。だけどそれは人に頼まれて、仇を討っただけなんだから」
また背を向けた貂蝉を、その男は慌てて呼び止める。
貂蝉はもう一度、その男の足元に立った。
「あなたのお名前は」
「縄をほどいてくれたら、教えてあげる」
「それもそうですね、わたしとした事が」
この男はお尋ね者だった。そう簡単に名乗れるはずがなかった。
貂蝉は肩をすくめ、服のどこからか短刀を取り出した。
一瞬、男の首筋に目をやった貂蝉は、縄にその刃を押し当てた。
「おれは、
☆
「
今から四百年ほど前に秦の始皇帝に仕えた方士の名前だ。東海の彼方、
「それが、どうしたんですか」
貂蝉はずるずる、と麺をすすりながら訊く。当然だが、卓の向こうに座る徐庶の前には何も置かれていなかった。
「実はその徐福は、うちの祖先なんだよ」
「へー」
それはちょっと珍しい。
「わたしは、漢の中山靖王劉勝の末裔だと自称する人に会いましたけど」
確か劉備さまがそんな事を言っていた。
「そうだね。最近はそんな人が多いから、困ったものだよ」
「あなたを含めてですよね」
はぁー、と徐庶はため息をついた。
「厳しいなぁ、最近の女の子は」
そう言いながらもぐいっと身体を乗り出す。そして貂蝉が抱え込んでいる丼ぶりを指差した。
「お願い。それ、一口くれない?」
「いやです」
☆
「おい、みつけたぞ」
店の外で叫び声がした。慌ただしく数人の警吏が店の中に入ってきた。街路に背をむけた徐庶に向かって真っすぐやって来る。店内が騒然となった。
「貴様、顔を見せろ」
肩に手をかけ、ぐいと引き寄せる。
「どうしたんだい、お兄さんたち。あたいに何かご用かい、んふっ♡」
振り向いて色っぽく身体をくねらせる徐庶を見た男たちは、そろって顔をひきつらせた。
「ちっ、貴様のようなブスに用などある訳がないだろう。汚いものを見せるな」
徐庶を突き飛ばすようにして警吏たちは出て行った。
「うむ。助かったのに腹がたつのは何故だろう」
徐庶はこの直前、貂蝉によって化粧を施されていた。可愛い町娘になっているから心配するな、と貂蝉は言っていたが。
「あれが男の本性ですから」
「そうか……面目ない」
徐庶にも心当たりがあるようだった。
「なあ、貂蝉。そろそろ鏡を見てもいいか」
いったい自分がどんな顔になっているのか、今更ながらすごく気になる。化粧してから決して見せてくれなかったのだ。
「それは……止めた方がいいと思います」
貂蝉の頬がぴくぴく動いている。後になって徐庶は、その時、貂蝉が笑いを必死でこらえていたのだと気付いた。
☆
「荊州に、あなたが?」
不思議そうに貂蝉は徐庶の顔を覗き込んだ。宿に入り、もうすでに化粧は落としていた。
「そうとも。今、荊州はかつての
秦による統一以前、戦国七雄の斉国では、国都臨淄を囲む城壁のひとつ
諸子百家が乱立したこの時代は、古代中国において最も思想、文化が花開いた時だったろう。
荊州は太守劉表の治世が長く続き、北方の戦乱からは距離を置いている。そのため政庁のある
「では、目的地は同じですね」
貂蝉は寝台に横になった。ちいさく欠伸をする。
「だったら今から親交を深めねばならないな」
小柄な貂蝉に、徐庶は覆いかぶさる。貂蝉は冷ややかな瞳で見上げた。
「なんの真似ですか」
「うん。君のような美少女を抱くことができたら、天にも昇る気分だろうと思ってね。これは男の本能というやつだ」
もう徐庶は服を脱ぎはじめている。
はあっと貂蝉はため息をついた。
「確かに、わたしを抱いた男の方は皆、天に召されています」
えっ、と徐庶の動きが止まった。どうやら危険には敏感な男のようだ。動物的な勘で何かに気付いたのかもしれない。
「そ、そうですか。あ、おれは床で寝るから気にしないで」
よろよろと寝台を降りる。
「ところで、きみは歩いて旅をしてるのか」
脱いだ服を床に敷き、丸くなっている徐庶が話しかけてくる。
「いえ、馬ですよ。さすがに歩いては辛いですから。宿の
ああ、まあそうだよな、と徐庶は呟く。
「よかったら
「そうだね。それも悪くない」
若干、性格に難はありそうだが、こんな美少女と一緒なら楽しい旅になりそうだ。徐庶はすぐに眠りにおちた。
☆
「なあ、貂蝉よ。これって、本当に馬か」
翌朝、厩舎に入った徐庶はそれを呆然と見上げた。
「馬ですよ。もちろん」
貂蝉はその深紅に近い馬体を愛おしそうに撫でた。
「いや、でも」
おそるおそる手を伸ばした徐庶は、危うく嚙みつかれそうになり、慌てて手を引っ込めた。
「大きすぎるし、それにこの毛色?!」
その馬の名前を徐庶は知っていた。いや、この華北で知らぬものは居ないだろう。
「まさか、赤兎馬?」
言わずと知れた、猛将呂布の愛馬だ。いまは呂布の形見といってもいい。
「さあ。出発しましょうか」
荊州へ向けて。貂蝉は軽々と赤兎馬の背に跨った。
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