第2話 後編

 ――― 山桜 ―――


 ひとたび頽勢になったものは、取り返しようが無いのだろうか。

 単騎、大路を行きながら忠度は左右を見やる。

 立ち並ぶ屋敷には人影も無く、崩れた塀は荒れ果てた庭を晒していた。


 富士川の合戦において惨敗を喫した平家軍は、さらに北陸道に進出して来た木曾源氏の奇襲によって致命的な打撃を蒙った。

 忠度と、彼に並ぶ豪勇で知られる能登守 平教経の奮闘もむなしく、主力を失い壊乱した平家の将兵は都へ逃げ返ったのだった。


「いや……負けるべくして負けたのだ」

 自嘲というには、あまりにも感情が無い声だった。

 最初から兵糧が不足していた平家軍は、木曾源氏の迎撃に向かう際、途々で糧食を徴発しながら進んだのである。貧しい百姓家に残った僅かな蓄えすら容赦なく奪い取った。


「かつて、かような軍旅がいくさを征した試しがあっただろうか」

 忠度は首を振った。


 ☆


 平家の総帥、宗盛はすぐに都を捨てる事を決めた。居並ぶ一門を前に、天皇と後白河法皇を具し福原へ退却する事を宣言したのである。

 この男の愚かさも極まると云うべきだろう。廷臣から情報を得た後白河は、すぐさま姿を晦まし比叡山へと脱出してしまったのだ。

 後でそれを知った宗盛は、しばらく床に突っ伏したままだった。


「かくなる上は、京にて木曾源氏どもを迎え撃ちましょう」

 強硬に唱えるのは清盛の四男、知盛である。


(破れかぶれになっている者の瞳ではない)

 彼を観察し、忠度は意外な思いにうたれた。この知盛は、一門の中でも目立つ男ではなかった。

 いつも書物を読みふけっている印象の知盛は、決して忠度や教経のような武勇の持ち主ではない。かといって和歌の腕前も、その容貌と同じく並みのやや上といった程度だろう。

 その男が、宗盛が提案した都落ちに、かくまで反対するとは。


「最初から敵に背を向けるものに、勝機などありません」

 京の都は攻めるに易く、守るに難い。知盛の計略は木曾軍を洛中に誘い込み、包囲殲滅するというものだった。

「たしかに、それしか方法はあるまい。見事な策だと思う」

 忠度は声をあげる。知盛と目が合い、軽く頷いた。


「いや。やはり福原まで退く。もしそこも攻め込まれたなら瀬戸の海へ乗り出すのだ。やつらとて、軍船まではもっておらぬだろう」

 一度逃げると決めた宗盛は、すでに戦う気概すら失っていた。


 平氏一門は、続々と都を落ちていった。


 ☆


 忠度はある屋敷の前に立った。その門は固く閉ざされていたが、中にはまだ人の気配がある。五条通、藤原の三位俊成卿の屋敷だった。

 藤原定家の父である俊成は、自身も歌人として有名だった。忠度はこの俊成に師事していたのである。


 忠度は鎧の胸に手をやった。

 そこにはひとつの巻物が隠されていた。

 彼が日頃から書き溜めた和歌を選び、書き記しておいたものだった。

「葉桜よ……」

 忠度は呟いた。愛しい女の姿は、すでに京にはなかった。


 葉桜との間に子を成すことはできなかった忠度だが、この一群の和歌は彼女と共に選んだものである。

「これは、そなたとの子のようだな」

 いちど、忠度は言ったことがある。その時、葉桜は優しく微笑んでいた。


 しかし、ただ一首、彼女と忠度の意見が分かれたものがある。



 さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな



 得意げに披露した忠度に対し、葉桜は表情を曇らせた。

「どうしたのだ。これは気に入らないか」

 彼女は首を横に振った。


「見事だと思います。ですが」

 ほろり、と涙がおちた。

「この歌のなかで、あなたはどこにおいでなのでしょう。なんだか、この世ならぬ場所から桜を見ていらっしゃるようで……」

「そうかな。考えすぎであろう?」

 忠度は葉桜の細い身体を抱きしめたのだった。



「忠度でござる。開門を!」

 忠度が呼び掛けると、門を隔ててざわめきが伝わってきた。

「すわ、落武者が戻って来たに違いない」

 かえって門を固めているようであった。


「三位どのにお伝えください。この平忠度、三位どのにお話があり、恥を顧みず帰り来たったもの。門はこのままでよい、せめて間近まで!」


 やがて、ぎぎ、と音をたて門が開いた。

「このような際に、よくぞ参られた。忠度どの」

 穏やかな表情の師の前に、忠度は膝をついた。忠度に残された時間は多くはない。まず挨拶をかわしたのち、鎧のなかから巻物を取り出す。


「勅撰の和歌集を編纂されると伺い、書き記してきたものでございます。この中より、たとえ一首でも見るべきものがあれば、その集にお加えいただけましたなら、これに勝る喜びはございません」

 俊成はそれを受け取った。


「忠度どの、これは確かにお預かりいたします。ですが、この戦乱の世。はたして何時になるものやら、見通しが立たぬのが残念」


「それは承知のうえ。いずれにせよその頃には、わたしはこの世におりますまい」


 忠度は俊成に一礼すると、西方にむけ馬を走らせた。その顔には哀しみとも諦観ともつかぬ、微かな笑みが浮かんでいた。

(葉桜よ、そなたの言った通りになりそうだな)


 忠度の行く道を月が皓々と照らしていた。





 ――― 花の宿り ―――


 後方の陣屋から火が上がっているのを見た瞬間、忠度は目を疑った。

 源氏は一の谷の絶壁を駆け下り奇襲をかけてきたのだ。およそ人のなせる業とは思えなかった。

 だが、まだ終わりではない。これで終わる訳にはいかなかった。


「敵は小勢ぞ。ひるまず迎え撃て!」

 忠度は兵をまとめ、逆襲に出た。

 一度は大将らしき小兵の男を追い詰めたが、その郎党によって惜しくも阻まれる。

 その内、東西に設けた防柵が破られ、源氏の本隊が殺到して来た。

 平家軍は総崩れとなった。


 潰走する平家の将兵は、沖に停泊する味方の軍船へ向け、あるものは騎馬で、あるものは甲冑を脱ぎ捨てて泳いで逃走を始めた。

 敦盛、通盛ら平家方の多くの公達がこの戦で命を落とし、重衡は虜となった。


 こうして、世にいう一の谷の合戦は夕闇を前に終結した。



 忠度はよろめき、断崖の麓に倒れ込んだ。

 右腕は肘から先を切り落とされ、全身に無数の傷を負っている。

「これは、こまったな……」

 右腕に目をやり、忠度は小さくため息をついた。

「これでは和歌をしたためる事が出来ないではないか……あずまえびすどもめ、無粋な真似を」


 激痛に目を細めた忠度は、自分が桜の樹に寄りかかっているのに気付いた。

「そうか、お前が今宵の」

 左手で、その特徴的な樹皮を撫でる。あの和歌を書き連ねた巻物の最後に記した一首は、こうである。



 行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし



「だが、残念だ。花どころか、葉も散っているのだな」

 なあ葉桜よ、忠度は愛しい女の名を呼んだ。

 ふふ、とかすかに微笑む。



 ゆっくりとその双眸が閉じられていく。

 昏くなったその視界を、一枚の花びらが通り過ぎた。

「……?」

 思わず忠度は目を開けた。


 ひらひらと、白い花びらが舞う。

「桜が……」

 忠度の最期の言葉になった。


 雪片は、まだ早い春を待ち侘びる桜のように忠度のうえに降った。


 ひらひらと。


 桜を愛した男の上に降り積もった。





 ――― 終わり



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行き暮れて 木の下蔭を宿とせば 杉浦ヒナタ @gallia-3

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