行き暮れて 木の下蔭を宿とせば

杉浦ヒナタ

第1話 前編



 ――― 熊野ゆや ―――


 洛中を出で、東山へ向かうのは平家一門の公達だった。

 皆きらびやかに着飾り、和やかに言葉をかわしながら緩々と進んでいく。春の穏やかな日差しの中、目指す清水寺はわずかに霞んで見えた。


「あれが、すべて桜か……」

 遠く清水寺を望み、感極まった声をあげた男がいる。

 平 忠度ただのりという。

 太政大臣、平 清盛の末弟で、薩摩守に任ぜられている。武芸に長じ、熊野水軍を率いて海賊討伐に勇名を馳せていた。

 そしてこの忠度は和歌の上手としても知られ、桜を題材とする事をとくに好んだ。


 戦況報告のために帰洛した忠度だったが、こうして東山まで足を運んでいるのは甥の宗盛むねもりに花見に誘われた為である。もちろん彼に、否やはなかった。


 忠度は少し後方を進む牛車を振り返った。

 宗盛は清盛の三男だが、長男の重盛しげもりが先年、世を去り、二男は早逝していたため、清盛の後は彼が一門を率いることに決まっている。

 緩み切った表情で、隣に侍る熊野ゆやという芸妓の手をとり、何やら掻き口説いているのが、現在の平家の棟梁、宗盛だった。


 愉し気な宗盛に比べ、熊野の表情は曇っている。うつむき、涙をこらえているようにも見えた。

 そこに不穏な気配を感じ、忠度は眉をひそめた。


 ☆


 毛氈を敷き、宗盛たちは酒宴の準備を始めていた。同行した女達を揶揄う歓声が、すでにあちこちで上がっている。


 ひとり忠度は、にぎやかなその場を離れ桜のあいだを逍遥する。

「おや、これは」

 一本だけ他の樹とは異なり、花弁が薄い黄緑色を帯びていた。

「これもまた、良い」

 彼はその花を見上げ微笑んだ。


 一首したためようと筆を手にとった忠度は、しばらくのあいだ思いに耽る。そしていざ書き始めようとしたその時、耳障りな声が響いた。


「なんと、よき日和じゃ。この桜どもも、今日を盛りと咲き乱れておるわ」

 調子はずれの甲高い声で喋っているのは宗盛だった。周囲からも追従の笑いが起こる。


「相変わらず、場をわきまえぬ不粋なやつだ」

 忠度は舌打ちし、手にした筆をしまい込んだ。


「おいおい、熊野ゆやよ。今日は花見ぞ。舞いなど舞って見せぬか」

「お願いでございます。ぜひぜひ、お暇を」

「よいではないか、今日はかくも見事な花見日和ぞ。そんな事は明日にせい。さあさ、舞じゃ。ほれ早う」

 ひれ伏し何事か懇願する彼女の言葉を聞こうともせず、宗盛は急き立てる。 


「あの熊野という女はどうしたのだ?」

 公達の一行から離れ、膝をついている少女に忠度は問いかけた。熊野の従者で朝顔というその少女も涙に暮れている。


「熊野さまのお母さまが今日、明日をもしれぬご病気で、すぐに戻られるよう、私が手紙をお持ちしたのですが……」

「なんだと!?」

 忠度は勢いよく立ち上がり、周囲に桜の花が舞った。


「宗盛どの。その女の事情を御存じないのか」

 桜のあいだに敷かれた緋毛氈に歩み寄った忠度は、怒りを押し殺し、静かに問いかけた。

 しかし宗盛はヘラヘラとした表情を変えることは無かった。


「いやいや。どうせ、この女の言う程、大した事ではないのでしょうよ。それに叔父どの、この花を見れば熊野の心も晴れると思いませぬか。だから儂は親切で言っておるのですが」

 心からそう思っているらしい宗盛に、忠度は言葉を失った。

 

「そんな怖い顔はお止めくだされ。せっかくの気分が台無しですぞ」

 ははは、と宗盛は笑う。


 すうっと忠度は息を吸い込んだ。


 いかにせん都の春も惜しけれど

      馴れしあずまの花や散るらん


 忠度の声が低く、桜木の間を流れた。

 その歌に公卿たちは静まり返った。きまり悪そうに、泣き伏す熊野から目を逸らしている。


 呆然としていた宗盛は、ふと空を見上げた。

「……雨じゃのう」

 ぽつり、ぽつりと水滴が落ちて来る。


 それまで雲一つない晴天であったものが、いつの間にか雲に覆われていた。

「仕方がない。では、今日はこれで帰るとするか」

 宗盛は、魂が抜けたように牛車へ乗り込んだ。

 

 熊野と朝顔の主従が故郷へ向け去って行くのを、忠度は馬上で見送った。


 そしてこの時が、平家が貴族として世にあった最後だったのだと、後になって忠度は痛感したのだ。




 ――― 葉桜 ―――


 忠度は宮中に仕える女官のもとへ密かに通っている。その娘も和歌をよく詠み、忠度とも気心の通じるものがあった。

 母親が先のみかどの皇女だったというその娘は、優れた知性においても忠度を満足させたのである。 


 ある夜、その娘の局を訪れた忠度は庭先で足を止めた。

「ふむ。葉桜に来客か……」

 桜をこよなく愛する忠度は、その娘を葉桜と呼んでいる。

 彼女はもう一人の女と話し込んでいるようだ。


 庭石と植え込みの間に隠れ、彼女の屈託のない笑顔を盗み見ながら、忠度はため息をついた。

「だから、話の長い女は嫌いなのだ」

 

 待てどもその女は帰る様子がない。すでに夜は更け、しっとりと夜露まで降りて来た。しかしそれより忠度を悩ませるものがあった。

「ええい、これはかなわん。痒いぞ」


 大量のやぶ蚊が忠度を襲っている。

 たまらず、扇を出してばたばたと蚊を追った。

 すると葉桜は、笑顔のまま優雅に立ち上がり、縁側へ出て来た。


 忠度はまだ音をたてて扇を振るっている。

 すると葉桜は室内から見えないように表情を一変させ、忠度がいる方の暗闇を、きっと睨みつける。

 その夜叉のような顔に、忠度の背中に冷や汗が伝った。


「野もせにすだく虫の音よ」

 しかし何事もなかったかのように葉桜は、口ずさんだ。

 ああ、忠度は思わず声を上げかけた。なんと優しい声なのだろう。

(今宵はあの声を聞けただけで、よしとしよう)

 忠度はそっと庭を出た。



 後日、再び忠度は葉桜のもとに忍んで行った。忠度は顔を寄せると、眠る葉桜の唇をそっと指でつつく。

 葉桜は眠ったふりをしたままで笑った。

「お待ちしておりました」

 そう言うと片目だけをあける。


「なぜ片目なのだ」

「ふふ。忠度さまの蚊に刺されて形が変わったお顔を、はっきり見ては失礼かと思って」

 忠度は苦笑いした。



 忠度と葉桜は互いの衣装の紐を解きながら、もどかしげに何度も口づけする。

「あれは、尚侍ないしのかみだったのか。ならば仕方ない、そなたも無下に追い返せはしないだろうからな」

 ああっ、と葉桜は喘いだ。忠度の武骨な手が彼女の胸を包み込んでいる。


「なぜ……」

 葉桜は忠度の耳朶に唇を寄せ、ささやいた。

「あの時はお帰りになったのですか」


「この口が、そんな事を言うのか」

 忠度はあえて乱暴に葉桜の唇を吸った。うふふ、と葉桜は笑みを浮かべる。

「ねえ、なぜでございます?」


「当然だろう。『かしがまし(うるさい)』などと言われたのではな」

 

『かしがまし野もせにすだく虫の音よ われだに物を言わでこそ思へ』

 つまりは、この歌を連想して欲しいという事なのだ。お互いの和歌への教養を知り抜いたうえでの遊びと言ってよかった。

 

「忠度さまであれば、察していただけると思いました」

 目元をほんのりと染め、横たわった葉桜は微笑んだ。

「小癪な娘だな、そなたは」

「それはよくご存じのはずでは……あっ」

 葉桜は息を詰まらせた。いつになく激しく、男のものが彼女を貫いたのだ。


「もちろんだとも。そなたの事は何でも知っている。そなたもだろう?」

 葉桜の両手が、忠度の背に回された。

「はい。でも……こんな。こんな激しいのは初めて」

 忠度の動きに合わせて、葉桜は甘い喘ぎ声をあげ続けた。


「今宵は、そなたの方が『かしがまし』だな」

 笑いながら忠度に言われ、真っ赤になった葉桜は男の首筋に咬みついた。


 ☆


 朝霧の中、甲冑姿の忠度が軍勢を従えている。

 伊豆で挙兵した源氏の御曹司、頼朝を討つため、薩摩守忠度は副将として出陣することになった。ただこの当時、西国では飢饉が相次ぎ、そのため集まった兵は決して多くなかった。

 もともと、東国の騎馬武者と比較し、西国の兵は弱兵といわれている。厳しい戦いを覚悟しなければならなかった。


「必ず帰る」

 忠度は歯型のついた首筋をおさえ、呟いた。




 




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