第二章 合気術参上
欧州回顧録「光は届くのか」
合気道。
かつてはこれを合気術と呼びましたが、この練習風景をご覧いただくと、かなりの人があっけにとられて「何だこれは?」という顔をするものです。
小柄で体格もない年配の方が、ほとんど力を使わずに相手が投げられていく派手な動作が、一見では信じられないのでしょう。
あんな超人的なことができるわけないと思う方もいらっしゃいます。
「やらせじゃないか」
「こんな簡単に人が倒れるわけがない」
「相手が自分から倒れているんだろう」
そう言われたことも何度もありました。
何しろ私も合気術を学ぶまでは、そう思っていたのです。
ですがそれは長い修行の年月を経て、偏見と断言できるようになりました。
この回顧録は、その合気術を利用した実戦の記録です。
残念ながらさる事情により公開することはできかねるのですが、どうしても残しておきたく、ここに筆を執ることにいたしました。
八月三十一日の早朝。
私はヒトラー総統の護衛のため、窮屈な潜水艦の長旅を経て欧州に降り立ちました。
荷物はカバン一つ。
紹介状や身分証以外はほとんどが衣服で、あとは潜水艦で知り合った武官の方にいただいた恩賜のたばこです。
私はあまり吸わないので遠慮したのですが、なぜかどうしてもとおっしゃったので。
やたらに高慢な方だったので少々の灸を据えたのですが、それがどうも効きすぎたようでした。
さて、この寄港地ブレストは巨大な城がそびえたつ軍港で、三銃士で有名な枢機卿リシュリューが整えた城塞が外洋、都市、周囲を見下ろしております。
現在は収容所となっているパラディ塔が不気味な姿を見せており、その隣には海軍工廠がありました。
すでにここはドイツの占領下にあるのですが、イギリス本土に近いこともあり、街中がピリピリとした空気に包まれています。
私はヨーロッパにもナチス・ドイツにも、ほとんどなじみがありません。
西部戦線ではイギリスと、東部戦線ではソ連と熾烈な戦いを繰り広げて連戦連勝、ヒトラー総統は本当の英雄で、ナチス・ドイツは世界を変えたという噂は聞いておりました。
しかしそうはいっても、実際にかの地に立ってみると、空の色が違うわけでもなく、鳥の声も猫の歩き方も日本のものと変わりません。
戦争の気配というのは人間が作るのだなあ、と思いながら、私は波止場から市街地へと向かいました。
私と潜水艦の旅をともにした日本人の大半は、持ってきた設計図やらを携えてナチスの方々とどちらかへ去っていきました。
私だけが縁石に腰かけます。
数時間が過ぎたころ、ようやく迎えが来ました。
戦車が走ったと思われる履帯のあとを乗り越えて、緑色の軍用車が一台だけ、ガタゴトとやってきます。
運転手に続いてもう一人が下りてくると、彼は「あなたがセンセイ・シオタか?」と鋭く尋ねてきました。
私がそうだと答えると、彼らは勢いよく踵を鳴らしました。
「ハイル・ヒトラー!」
例のナチス式の敬礼です。
私は普通に頭を下げましたが、その間、彼らは全く体を動かしませんでした。
なにも私がヒトラーさんなわけではないのに、いちいちこの挨拶をやっているのかと思うと、なんだかおかしな気分です。
しかしここで笑ってはさすがに失礼ですし、丁重に挨拶を返しました。
通訳さんの日本語はなんともたどたどしいものでした。
これで通じるのかと不安になりましたが、しかし私は武術の腕を買われてきたのです。
言葉は身振り手振りでなんとかするしかありません。
そんな感じで覚悟を決めて車に乗りますと、その軍用車は、それはそれは大慌てで走っていったのであります。
総統閣下のいらっしゃる『狼の巣』という指揮所は東プロイセンにあります。
千キロ以上あるということでしたが、道路が素晴らしく、アスファルトではなくコンクリートで舗装されております。
このアウトバーンという高速道路を、軍用車は飛ぶように走っていきました。
首都ベルリンでは一度だけ補給のために降りました。
着いたのは夜半でしたが、一度、灯火管制がひかれた中で空襲警報が鳴り響き、闇夜を右往左往する市民たちを目にしました。
先月の終わりにはかなり空爆を受けたそうで、皆、一様におびえた目をしております。
話題にするには
きな臭い国を東へ向かう中、私は透明人間とどう立ち会うか、十分に考える時間を作りました。
そんな時、最初に心に浮かぶのは、いつも恩師である植芝盛平先生でした。
「歩く姿そのものが武であるように」
先生には何度もそうおっしゃいました。
いつ戦いになるかはわからない、いつでも戦えなければならない、そういう意味でしょう。
植芝先生は合気術の創始者でもあります。
皇武館という道場を持っており、激しい稽古振りから「地獄道場」と呼ばれていました。
先生はまた陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校などでも武術を指導されておりました。
私はその皇武館の門下であるというご縁から、この地で英国の新技術と対峙することになったわけです。
私は第一次大戦中、大正四年の生まれで二〇代でしたが、兵役には就いてはおらず、今までは東南アジアで陸軍大将畑俊六の秘書をしておりました。
直接前線に関わる予定はなく、進出していく日本企業で合気術の指導などをしておりました。
そんなものですから、特命を受けて欧州に渡ることが決まった時には驚いたものです。
しかもその内容たるや、透明人間から総統閣下を護衛し、ナチス武装親衛隊に合気術を教えることというのです。
私はたいていの事では驚いたりしないのですが、これはさすがに自分の耳を疑いました。
ですが英国のグリフィン博士なる人物が実際に姿を消す薬を作ったことは確かということでしたし、親衛隊が透明人間に虐殺されたのも事実ということです。
裏付ける証拠がいくつも見つかったのですから、信用しないわけにもいきません。
情報が少なく、透明人間というものがどういうものかもよくわかってはいません。
しかし、姿が見えなくなるのは肉体だけで衣服は関係ないこと、つまり襲ってくるときは素手であることなどから、徒手で戦える合気術が有用であることは予想できました。
それにもう一つ、合気術が同じ徒手の武術としても、銃剣や柔道よりも効果的なのではないか、という思いもありました。
それは、合気術は反応、反射を重視する武術であるからです。
植芝先生は、銃弾は飛んでくる前にわかる、ということをおっしゃっていました。私の目の前でそれを見せてくれたこともありました。
不思議に思って何度も聞いたものですが、先生はこう言ったものです。
『銃弾が届く前に黄金の光が届くから、それをかわすと当たらないのや』
正直なところ、これは信じようとしてもにわかには難しい話です。
どんなことでも植芝先生の言うことは受け入れることにしていたのですが、それでもこれだけは実証しようと思ったことは一度もありません。
ただ、殺意は行動よりも先に発せられると言われれば、そのような気はします。
先生はそれを光に例えていたのではないか……私の理解としてはそのようなものでした。
私はこの植芝先生の話が、今回のカギとなるのではないかと考えていました。
透明人間は見えなくても、透明人間が発する殺気は読み解けるかもしれない。
相手の殺意や戦意などを感じられるなら、姿が物理的に見えなくとも戦えるのでは……というわけです。
しかし、その考えは単なる思い上がりかもしれません。
いくら先生が神業の使い手であっても、私は先生ではないのです。
いざ透明人間と立ち会う段になったら、見ることも感じることもできず、袋叩きにあって殺されてしまうかもしれない。
アウトバーンの行く手に広がる空には、未だ得体のしれない恐怖が浮かんでおりました。
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