第四章 語られぬ約束

トラウデル・ユンゲの日記(1)

 時折、ナチス・ドイツという国に生まれたことの意味を考える。


 私は政治のことはわからないし、軍事のこともわからない。ヒトラーがこれまで行ってきたことがすべて正しいとは思わないし、この戦争が完全な正義の上にあるわけではないことも理解している。


 それでも私、トラウデル・ユンゲにとって、政策や戦争に関することは、あくまで仕事を通じた間接的な世界だった。


 私の父はミュンヘンのビール醸造職人で、母は将軍の娘だった。かつてダンサーを目指していたこともあったが、経済的に豊かでなく、実業校に進んだ。大戦がはじまってからは、ヒトラーと同郷だった成り行きで狼の巣に来て、長期休暇に入るゲルダ・クリスティアンの代理秘書として就職した。


 そして、この職場で結婚相手を得た。ヒトラーの従卒であるハンス・ユンゲの妻となったのだ。我ながらずいぶん山っ気のある人生を選んだものだと思う。それでも、彼を好きだという気持ちには代えられなかった。どうしても。


 私が考えるのはいつもごく身近なことだった。日々の仕事に精を出すこと、日々の生活に時間をかけること、そして、愛する人への思いを馳せることだけだ。


 1943年10月1日の夜。


 私は総統大本営の専用駅からベルリンへ行く機関車に乗っていた。戦争が始まってから初めての長期休暇だ。例の透明人間に夫が関与していたことを知り、私は激しく狼狽して憔悴しており、仕事の能率が大きく落ちていたのだ。ヒトラーに問いただされ、不調の理由は夫のことであると告げると、一度、ベルリンに行って彼に会えと言われた。


 夫からのメッセージは信じられない内容だった。透明人間がヒトラーを襲い、ハンスは前線ではなく狼の巣で彼らと戦っていたこと。そして日本人の救援を呼び、入れ替わりで去っていたこと。その内容はあまりにも目と耳を疑うようなものであった。


 そして、内容を知れば知るほど、ハンスと十分な別れの言葉を交わしていなかった後悔があふれ出るように浮かび上がってきた。

 

 ハンスに対しての怒りは何もなかった。すべて承知の上で、私は彼と結婚した。だから彼が透明人間と戦うことになったことも、それを私に直接言えなかったことも、良きドイツ人であるために必要なことはわかっていた。


 それでも、想いを心の底まで沈めきることはできなかったのだ。


 秘書の不在はヒトラーの迷惑になるのではと聞いたが、もっと重要なことがあると返された。結局、私は指示に従うことにした。もしかしたらこれで解雇かもと思ったが、それでもよかった。


 この列車に乗れば、明朝に彼はベルリンまで迎えにくるという。そうすれば、彼と過ごす一日をもう一度増やすことができる。


 感傷に浸りすぎるのはよくないと、私は水筒から水を一口飲み、背もたれに体をあずけて少しでも寝ようと目を閉じた。夢の中で彼に会えるといいと思いながら。


 ところが車輪の音がして、少しばかり立ち、異変が起きた。


 地鳴りのような音だが、下からではない。目を閉じて休んでいた作業班の一人が天井へ顔を向けた。


「なんだおい」


 車両の椅子は簡易なものだ。ぐらぐらと揺れるとそれは次々に倒れていった。数度、貨車の上で激しい衝撃が繰り返された。続いて天井の一部がミシミシとひしゃげた。


「ご夫人、こちらへ!」


 作業員に手を引かれて車両の端による。この貨車には貫通扉がなく私たちは隅にうずくまった。それ以上逃げることはできなかった。


 天井が瓦礫がれきに形を変え、貨車の中央を敷き詰める。そこへ二人の男が落下してきた。一人は私に背を向けた小さな姿。その奥には包帯を巻き付けた巨大な姿が両手を広げている。


 それまでの逡巡を消し飛ばす驚愕だ。


 センセイ・シオタ。


 そしてその向こうに、巨大な透明人間。

 

「すいませんねえ! ノックしたら壊れちゃいましたよ!」


 包帯のかたまりが活舌良く大声を張り上げた。


「な、なんなの、あなた?」

「顔も見えないのに、名乗っても仕方ないでしょう!」


 大笑いしながら男は拳を振り上げ、自分とシオタの間に横たわる柱へ振り下ろした。建材は一撃でへし折れた。前に見た透明人間とは明らかに体格が違う。


 シオタは揺れる床にすっくと背筋を伸ばして立ち、両の手を開いて体の前に出している。透明人間はその彼へ向けて、悠然と歩を進めていった。

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