遣独潜水艦伊号第八 乗務員A氏の記録

 第二次世界大戦当時。西のドイツ第三帝国と東の大日本帝国とを戦略的にどう結ぶかは大きな課題であった。


 一九四一年六月に独ソ戦が始まると、シベリア鉄道経由の陸上連絡路は完全に途絶した。さらに同年十二月、日本が英米と開戦すると、海路での連絡もまた至難となった。イタリアが発案した欧亜航空連絡も、当時の飛行機では航続距離が短くソ連上空を飛べないという二重の問題があった。


 この状況を打破すべしと白羽の矢が立ったのは潜水艦であった。


 当時、日本が渇望していたナチス・ドイツの技術といえば電波探知機だが、人材も相互に送りあうため、大使館付武官や技術士官、そして民間技術者なども潜水艦で送られることが決まった。


 これは遣独潜水艦作戦と呼ばれた。


 そして一九四三年六月二十二日。伊号第八潜水艦はこの作戦の第二次訪独艦として、特設潜水母艦日枝丸ひえまるとともに、帝国陸軍が占領したシンガポールから出発するところであった。


 鉄の壁に包まれた居住区はやけに狭かった。それも当然な話で、ここはもともと魚雷発射管室であり、それを工廠こうしょうで強引に作り替えているからだ。人の臭いが近く、視界は狭い。しかもその中に追加の乗員が増えることとなったのだ。船内の空気は勢い殺伐としたものであった。


 ところがその中。新たな乗客が入ってくると、彼はこんなことを口にしたのである。


「イヤ、潜水艦に乗るのは初めてですが」


 その青年はぼそっと、しかしその場にはっきり聞こえる声でつぶやいた。


「何度も乗りたいかと聞かれると、答えには窮しますなァ……」


 周囲の目が青年に突き刺さった。


 今は国家の大事だぞ。我々はその中で重要な任務を背負っているのだぞ。日本男児たるもの、そんな文句はこらえるべきだろう。そういう意味の視線だっだ。


 そして一人、青年の隣にいた外交武官が不愉快そうに「君」と声をかけた。


 しかしながら、そこで武官は青年を見ると、なぜかその気持ちがふっと消えてしまったような、奇妙な顔になった。自分で感情の変化に驚いていたようだ。


 武官は薄暗い中、口を閉じて彼に目を凝らした。


 青年の装束は甲号の国民服に小さな背嚢と、全く珍しいものではない。それでも武官が、自身に起きた感情の変化に戸惑っているのは明らかだった。

 

「いかがされましたか?」


 青年は少しだけ腰を浮かして聞き返した。


 武官はいそがしく手を振りながら、所在なげにハンケチを取りだして汗をふいた。


 周りにいる我々も、青年を見ていると武官と同じような気分になるのはわかった。どうにもとらえどころがないのだ。青年の奥行きのある目は、落ちついているようでも鋭いようでもあった。


 それでも話しかけた手前か、武官はさらに話し続けた。


「いや、失敬。民間の方ですかな。失礼ながら、名簿にはなかったかと存じますが」

「そうですなァ。急に決まりましたもので」


 屈託のない青年の声が、何を慌てているのかと語っている。


「ええ、じゃあ、ドイツへはどのような任務で?」

「ええと、そうですな。ここで申し上げるのはご勘弁いただけますかな」


 武官は少し言葉に詰まって下を向いた。一つ小さく咳ばらいをして、うむ、とつぶやいた。


「重ねて失敬をば」

「少々複雑といいますか、ご説明が難しいお話なのです」

「うむ、まあそれは皆、同じ事ですからな。ではご職業だけでも」

「ははァ」


 重ねて問うと、青年は照れくさそうに笑った。眉を寄せて言葉を待つ武官へ、彼はディーゼルの音に消えそうなほどの小さな声で、頭をかきながら答えた。


「わたくしは武術家でして」

「武術家?」


 武官が繰り返した。


「武術家というにはずいぶんその……」


 口ごもりながら、武官が青年の全身をジロジロと見つめた。


「弱そうですかな?」

「イヤイヤ、決して左様なことは」


 武官がそう返したが、その言葉が上っ面なことは傍から見てもわかった。


 それはある意味では仕方のないこととも言えた。青年は貧相な体格というわけではなかったが、筋骨がそれほど発達しておらず、なで肩で腕も細い。武官のほうが相当達者に見える体だったのだ。


 普通、武術家といえば宮本武蔵とか千葉周作とか、まずは欧米人にも体格で負けない印象を与えるものであろう。大柄で四角い体格を連想するその言葉には、およそ似つかわしくない。質素で古風なたたずまいはそれらしいが、荒事には向かなそうな見た目だった。


「そういえば、申し遅れました。私は塩田剛三と申します。陸軍大将畑俊六閣下の秘書で、ボルネオ島に派遣されておりました」


 武官が言葉を継ぐ前に青年が名乗った。遅れて武官も名乗り、お互いに来歴を交換した。塩田は政府の外郭団体である大日本武徳会から派遣されており、彼の師匠は植芝盛平うえしばもりへいという人物だということであった。


 武官は少し饒舌になった。結局、青年が技術者として武術を教えに行く立場であり、実戦の担当者ではないのだなと一人納得しているようだった。それから急に横柄になり、武徳会には知り合いがいるだの、自分もかつては柔道をやっていたのと景気よく語りだした。塩田もそれを、ほう、ほうと楽しそうに聞き続けてくれる。これに気をよくして、武官は思わず口を滑らせた。


「どうです、何か腕を見せてもらえますか」


 それを聞くと、塩田はぴたりと笑顔を止めて武官を見た。


「はァ、腕とは?」

「つまり何か技をご披露いただけんかと」

「いやァ、こんな狭いところでは」


 塩田が答えたが武官は食い下がった。


「狭けりゃ使えんというのであれば、それじゃあ武術とは言えませんでしょう」

「ははッ、それはどうでしょうかな」

「そう言ってる間にも敵は襲ってくるかもしれない。例えば、貴殿ならこう来られたらどうなさいます」


 言って武官はぐっと太い腕を突き出し、塩田の肩をつかもうとした。


 一瞬。武官は塩田の足元へうずくまり、鼻を床にくっつけた。


「おおっ?」


 声を出したのは武官ではなく、驚いて引き下がった周りの乗客だ。当の本人は、あっけにとられてじっと床を見つめることしかできなかった。


「何がいったい?」


 武官が顔を起こそうとすると、その勢いのまま、今度は天井へ飛び上がった。水を通す鉄パイプが額の一寸前まで迫る。今度こそ、その武官はキャッと高い声をあげた。


「イヤ失礼」


 塩田はにこやかな笑顔で、さっきと同じように鉄椅子に座っている。


 遅れて武官の両足が、船室の床にトンと戻った。自分の右手首を塩田に握られていたことは理解したが、それ以上は何が起きたのか全くわからなかったようだ。


 この時、塩田は武官の右手首を軽くつかんでから、そのわずかな接触を通じて全身を動かしていた。


 接触点を通して相手と呼吸を合わせ、複雑な人体構造を把握しつつ筋肉や関節を瞬間的に連携させ、重心・体勢を崩しつつ誘導していく。武官はその巧みな挙動に気づく間もなく、全身を操られていたというわけである。


 これこそ魔術でも手品でもなく、塩田が修めた武術のごく一部であった。

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