ハンス・ユンゲの手記(2)
「
「透明人間の襲撃に対応することはすべてに優先する喫緊の課題です、総統閣下」
同僚の発言を目で流して、ヒトラー総統は後ろに回した手を忙しく振りながら答えた。
この狼の巣は、居住棟や管理棟だけでなく、大型の食堂や映画館もあり、コンクリート製の
だが、この無敵の要塞も透明人間には歯が立たなかったのだ。
これまでに倒した怪物は私が最初に射殺した1人だけ。こちらの被害は今日で40名に達しており、その半数が士官だ。記録は独立した文書に記載され表ざたになることはなかったが、甚大な被害だった。
急遽編成された対透明人間部隊は30名。足りないことは明らかだ。執務自体を大幅に変える必要があった。
現在、重要な会議は常に蒸し暑い退避壕でなされている。透明人間が絶対に入ってこられない場所を選び、一人が通るたびに開けては閉め、開けては閉めというバカげた作業を繰り返し、会議はそれから始まるのだ。
ヒトラー総統がいら立ちを露わに見せるのも当たり前だった。
「今は東部戦線の決断を下し、行動すべき時期だ。戦果を得てこそ、すべての話は始まるのだ」
「存じております、総統閣下」
「その時期に、私がこの本営を離れるべきだと、そう言ったのか」
「申しあげたとおりです、総統閣下」
提案を続ける将校に全員の目が突き刺さっている。会議室は彼と総統以外、一言も話せない空気になっていた。
「シュミットとユンゲは残れ。他はいったん解散しろ。30分後に軍議を再開する」
その一言で場の緊張は解け、作戦参謀たちはほっとした顔でぞろぞろ出ていった。
巨大なテーブルの前で総統は交互に私たちを見つめ、報告した同僚の前で足を止めた。
クラウス・シュミットというこの任務のために新しく配属された大尉は、ある意味ではナチスの軍人として極めて適性があった。動揺するということがないのだ。体にも脳にも歯車が入っているような男であった。
実直で勤勉で、射撃にも格闘にも優れ、事務能力にもたけている。その融通が利かないところこそが長所といわれている。だが、ずっと総統のそばに仕えてきた私の身としては、さすがに冷や汗が流れた。
総統が腹を膨らませて大きく息を吸った。
「貴様らの報告で会議がどれだけ中断されたか、わかってるのか!」
強烈な怒声が鼓膜を突き刺した。覚悟はしていたが、ついに来たか。
「いえ、ですが総統閣下……」
取り繕うために私も口を挟みかけたが、シュミット大尉は大柄な体をピクリとも動かさず、私よりもはるかに大きな声で続けた。
「英国軍の新技術は我々の理解を大幅に超えております。この狼の巣が相手に突き止められた以上、すぐに動くべきです、総統閣下」
シュミットは言葉を止めなかった。軍人の本分を賭けての進言なのだ。この態度に、私はもう口をはさむ気はなくなり、やりとりが終わるのを待つと決め込んだ。なんといってもこの報告は事実なのだ。
「最低でも警備は3倍にすることを進言いたします。10倍と言いたいところですが、4時間交代の勤務でも少なくとも気配に集中する程度であれば可能でしょう。これが現時点で申しあげられる最低限の要請となります、総統閣下」
シュミットがそこまで言い終わるのと、コンクリートの壁に声が反射するのと、どちらが早かったか。
「透明人間がどうした!」
目の前のティーカップをひっくり返し、床にぶちまけた。私たちの軍靴に熱湯が飛び散った。
「見えないだけだろ!」
総統がさらに机を二度叩いた。転がったティーカップがさらに石の上を跳ねた。
横に大きく手を振る総統に対して、シュミットは直立不動の姿勢のまま、眉一つ動かさずに言い返した。
「それが最大の問題です、総統閣下!」
「廊下に砂利をまいてタールを流しておけ! なにかおかしかったらペンキをぶちまけて煙を吹き付けろ! いったいこれまで何を勉強してきたんだ! 貴様らの出た学校に科学の授業はなかったのか!」
その程度のことはとっくにやりました、と喉まで言葉が出かかったが、なおもシュミットは言葉を続けた。
「相手は単なる透明な物体ではありません。知恵を使い、巧みに我々の想像を超えてくるのです。ある時は窓枠を伝い、ある時は風雨の強い日に移動し、陽動のために関係ないガラスを割り、多人数で作戦を立てて動くのです」
よほど度胸があるのか言葉が巧みなのか、シュミットは淡々と自分の表現で説明を続けていく。
総統がまたも机をたたき、怒りに燃えて私たちを罵りまくった。
「この3年間で何を見てきたんだ! チャーチルの兵隊が何を考えどう動くかを!」
「目に見える兵士たちとは何度も砲火を交えました。しかし今回の相手に対しては違います。我々はこのような戦闘を想定していないのです。繰り返しになりますが総統閣下、もはや手は一つしか残されておりません。つまり」
シュミットはそこでようやく沈黙を挟み、声色を改めた。
「同盟国、日本の手を借りるしかないのです!」
ヒトラー総統はそこでようやく怒気を抑え、真剣ではあるが、その一方でひどく不安げな様子を見せた。従卒だった私にとっても珍しい表情だ。
我々は例の事件以降、いち早く日本に対策がないかを打診していた。そうしたところ、この問題はあっさり解決できる見込みがあると、日本の高官がすぐに答えたのだ。両国の通信は様々な方法で傍受されているとわかっていたが、このやり取りは幸か不幸かここまで続き、日本は透明人間対策に協力することになっていた。
それでもヒトラー総統の顔は浮かなかった。
「センセイ・ウエシバは来ない」
「はい、重病と聞いております。しかし彼の高弟が来ていただけるとの事です。東南アジアで彼の武術を教えている、センセイ・ゴーゾー・シオタです」
「センセイ・ウエシバは銃弾が飛んでくる前にその弾道が見えるという達人だ。中国大陸での戦いも経験している」
「劣らぬ実力と聞いております」
「たしかに日本人には鋭い直感が備わっている」
総統は我々から視線を逸らし、それまでと異なる声でつぶやいた。
「3千年間、一度も負けたことのない頼れる味方だとも言った。だが奴らは姑息で信用できん。センセイ・ウエシバを病気と偽るのも、代理をよこしてくるというのも、無礼以外の何物でもない」
「センセイ・シオタは代理ではありません。不世出の天才とのことです。何処へ行っても、誰とやっても負けぬという、センセイ・ウエシバのお墨付きです」
シュミットのこの言葉に、総統はようやく背を向けて扉へ向かった。
「私と閣僚、将軍は断じてここを離れない。だがそれ以外の方法を考えるなら権限は渡す。好きにしろ。今後、本件に関する報告は不要だ。英国の新技術のことも含め、関係者のみで処理しろ。私の焦点は東部戦線にある」
総統は出ていくと、後ろ手のまま扉を閉めた。
私たちの緊張は会議室に残したままだったが、それでも提案を通し切ったことで、まずは胸をなでおろした。なにしろ一番困難なのがこの説得だったのだ。
「それで肝心のシオタの到着はいつなんです」
私が小声でシュミットに伝えた。
「例の潜水艦は問題なく到着できそうだ。入念な準備をしている。首尾よくいけばそろそろ……」
その言葉を遮るように、コンクリートの部屋へ伝令が入ってきた。ずいぶん慌てていたらしく、握りしめた紙片が汗を吸ってよれている。指先でそれを開いた。
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