ハンス・ユンゲの手記(4)
刃物は私には届かなかった。
数秒の混乱に陥った。どこにも傷を受けていない。痛みも感じていなかった。私は全身をさすりながら飛びのき、正面に目を凝らした。見えざる怪物はまったく見事な動きで私の顔をめがけて斬りかかってきたのだ。確実に命中できるタイミングだった。
揺れる刃先の根本から数えて数センチのところに、細い手が割り込んでいる。
「なんだ」
そうささやく前に、私の目の前の手が動いた。
奇妙な速さだった。加速ではなく、すでに速い、というのが近い表現に思えた。痙攣のようにひゅんと手が震え、蛍光灯がその残像をいくつも映した。ほとんど同時に、透明な男が悲鳴を上げた。ガラスのナイフがくるくると回転して、床にカシャッと小さな音を立てた。
その音に遅れることなく、現れた男は俊敏に体を横へ回転させた。続けてつるはしを振るように、両の腕を振りあげ、振り下ろした。
「おおっ?」
時間が狂うような感覚に、私は思わず
なにをやった?
軽快に跳躍する姿が再度手を動かした直後だ。形容しがたい渦のような何かが空間を引き裂いた。それまでここにあった石造りの施設が意識から飛び去って行く。次元の錯綜した別の世界へと切り替わっていく。
真円。
信じられない。
見えないはずの透明人間が、空中に見事な円を描いて投げ飛ばされている。
足下に鈍器を落としたような音が響いた。恐怖に取り乱した兵士たちと対照的に、男はカエルのように二度、ひょいひょいと小走りに動き続けている。彼の視線は数か所を交互に行き来している。透明人間がそちらのほうにいると見込んでいるようだ。
砂利の音。これは透明人間が立ち上がった音だ。さらにもう一度。これは透明人間が土を踏み、蹴りを繰り出したのだ。なぜかその位置が理解できた。これまで皆目見当がつかなかった怪物の居場所が。
男の立ち位置だ。
遅れて私は、自分の直感がどこから来たかを理解した。割り込んできた男のステップ・ワークが、なぜか相対している見えない存在まで明瞭に浮かび上がらせているのだ。
掴みかかろうとしている。こんどは飛びかかろうとしている。男の軽やかな跳躍に連動して、透明人間の輪郭が浮き彫りにされていく。
一瞬。男が体を翻して一気に透明人間に接近した。透明人間と男の距離はほとんど離れていない。そこで砂利の上にある透明な足を、男の足が踏みつけた。というよりも、釘で貫くように靴の先端が透明人間の足の甲を突いていた。
見えない姿が激痛に叫んだ。続く男の細い拳が見えない胸板を激しく打ち据えた。見えない背中がのけぞっていく。見えない腕がまたも折りたたまれていく。
再度、大きく宙に真円が描かれた。空間を切り裂いて鈍重な音が私の固まった足を揺らした。私の足元に透明人間がたたきつけられた。
頭蓋が完全に割れた。見えなくてもそれは明らかだった。
この小さな男が、透明人間を死に至らしめたのだ。
しばらくの沈黙。そして別の方角から英語が何度か聞こえた。私が平静を取り戻した時には、その足音はすでに遠ざかっていた。
「しまった」
男が倒したのは数人のうちの一人だけだ。残りには逃げられた。慌ててその背中――多分背中だろう――を追って拳銃を打った。だが私の弾は芝生に当たり、姿をとらえることはなかった。
土の上に静寂が戻った。振り返ると仲間たちは半数が息絶えており、残り半数は情けなくも、所在なさそうに周囲を見回していた。
空気を捻じ曲げたあの男だけが、静謐を取り戻した中に腰を落とし、周囲を見回していた。
「何者だ」
拳銃をしまいながら声をかけた。
「うーむ」
男は低く声を出すと、私ではなく、その手前に目を落としていた。
彼の足元に、黒い液体が広がっている。
血液だ。
その血だまりの上に、続いて半透明のビニールみたいなものが見えてきた。と思うなり、それはうつぶせの裸体へと変容していった。即死だ。毛深い全裸の体は、もう動くことはなかった。
死と隣り合わせになった恐怖は抜けていた。闇夜に佇む彼の側へ歩み寄った。ナチスの制服ではない。見覚えもない。
誰だ。
なぜここにいる。
何をやった。
言葉が口の中で渋滞を起こしていく。
彼は私の混乱など気にもせず、突然すっくと立ち、頭を下げる礼を私に向けた。闇が横たわる死者と怪我人を覆い隠していたが、その小さな姿だけはくっきり浮き上がっていた。
奇妙にこけた頬。くぼんだ目から発せられた強烈な視線。彼はごくわずかに口角を上げると、ひどくたどたどしいドイツ語を口にした。
「
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