欧州回顧録「真打登場」
二度目の勝負を終えてからは、相手への尋問やら移送やらで、親衛隊の仕事はそちらで多忙になりました。
また、姿を現した者たちの自白により、この本営にはもう透明人間はいないということもわかりました。
その日も合気術の指導に赴きましたが、二週間前の真剣さはどこへやら、その日集まったのはたったの四人で、しかもあまり身が入らない様子です。
稽古はさっさと切り上げ、彼らが最も忙しくなる夕方の時間にもかかわらず、私は宿舎へ戻りました。
秋口に入るとこの地域はかなり寒くなるようです。
しかも今日は曇り空で、夜になったら雨が降りそうでした。
快適な気分でしたが、どこか拍子抜けした気分です。
子供が喜びそうな甘いジャムが塗ってあるパンを食べ終えると、木々と草のすれる音を窓の外に感じながら、私はすぐに眠りに落ちました。
夢の中で、私は子供になっていました。
高熱にうなされている私を誰かが看病しています。
生死の境をさまよっていた私を救ってくれたのは、医師である父でした。
彼のおかげで私は徐々に元気になっていきました。
夢の中の時間はあっというまに進み、幼少の私は柔道や剣道を始めました。
それから旧制の中学を卒業して拓殖大に進学していきます。
そこから先は、植芝先生の稽古の風景が続きました。
私は投げられても投げられても立ち上がり、先生へ仕掛けています。
先生は大本教という宗教を信じており、信仰を重ねた謎めいた言葉で指導をしています。
私はその言葉の中から、なんとか要点を読み取り、動作と一致させ、一つずつ技を覚えていきます。
叩きつけられ、ねじ伏せられ、いつの日か恩師をぶん投げてやると、その一心が夢を駆け巡っていました。
やがて思い出は、東南アジアからドイツへと続いていきます。
そこでも、夢の中で植芝先生がおっしゃっていました。
『常に素直になりんさい』
『常に自然でありんさい』
『歩く姿が武でありんさい……』
考えてみれば、私を作り上げた大半は、植芝先生の合気術だなあ、と思います。
ドイツという国は同盟を結んでいるといっても、私には未知の場所です。
化学や薬学と無縁だった私には、透明人間も理解しがたい存在です。
いつ、どこでも、いかなる時でも、私は武術家でしかないのです。
夢の中で、何か大きな音が聞こえました。
植芝先生が怒鳴っているのでしょうか。
塩田、塩田と叫んでいるようです。
やれやれ、今日は何を叱られるのだ。
寝台から起き、床に降り立ちました。
そこで周りを見渡して、ようやく我に返りました。
そうだ、私はドイツにいるのだ。
植芝先生がいるわけがない。
叱られるわけが……
湿気が多く、私はべっとりとした汗を全身に感じました。
どうも植芝先生の怒鳴り声だと思ったのは、雷の音だったようです。
そして、そこまでわかったところで、不意に私は自分の不覚を理解しました。
『今、夢の中に神さんが見えたぞ。塩田が油断しとるぞ、やっつけられてしまうぞと教えてくれはったぞ』
植芝先生が、そうおっしゃったような気がしました。
先生とは違い、私は無宗教です。
本当に夢枕に立ったとまでは思いません。
しかしなんにせよ、この声は間違いなく私を救ってくれました。
頭を巡らせ、そして今の状況を整理しました。
総統閣下の暗殺を防いだのは、ほかでもないこの私です。
であれば今度の標的は、私になるはずです。
英軍がすべてをあきらめるとは思えません。
戦争中なのですから、まだまだ次を出してくるはずです。
そして私を仕留めにくるのは、これまでと同じような人たちではないでしょう。
二度の失態を挽回しようというのです。
だとすれば、派遣してくるのは一卒の新兵か。
そんなはずはありません。
最も強く、賢く、戦意が高く、忠誠心に熱い、一番の戦士が来るはずです。
私は暗い中、慌てて衣服を替え靴を履きました。
士官のところへ今の話を伝えようとしたのです。
彼らは基本的に宵っ張りなので、この時間でも起きているはずです。
外に出ますと、今にも雨が降りそうな曇り空が広がっていました。
人の出が少なかったので、私は急がず慎重に歩きました。
そしてそこで、あっ、と驚いて地面を見ました。
シュミット大尉が、足を抱えてうずくまっています。
「どうなさいましたか!」
言葉が通じませんが、足を折られているのは間違いありません。
私はすぐに宿舎へ戻り、通訳さんとお医者さんを連れてきました。
驚いたことに開放性の骨折です。
脚の骨が皮膚を突き破っていました。
シュミットさんは決して合気術がうまくはありませんでしたが、体格が良く格闘術の心得があります。
襲われてもそうそう倒されることはないと思っていました。
その彼の骨が、強靭な力でへし折られているのです。
「……透明人間は本営の専用駅だ」
相当な苦痛のはずですが、大尉は血の泡を交えた声で背後を指さします。
「相手は何人かいたのですか?」
「一人だ」
「確かですか」
「確かだ」
そこまで言い切ってから、大尉は失神しました。
「すぐに彼を連れて戻りなさい。今日は極力外へ出ないように」
担架が飛ぶように医務室へ行きます。
私は周囲にさっと目を向け、それからゆっくりと専用駅へ歩き始めました。
予想は当たっていました。
シュミット大尉を襲撃したのは新手です。
警戒をさらに強めたこの狼の巣へ、真打がやってきたのです。
私は専用駅へ足を向けました。
不思議なほどに心は落ち着いていました。
秋の枯れていく木々が風に鳴り、耳慣れない夜鳥の声が聞こえます。
重なり合う枝の隙間からゆっくり動く
一歩。
一歩。
永遠に通じる道を歩いているような気分でした。
自分を狙う敵がどんな相手なのかを思い描きました。
何か特殊な個性を持っている人なのではないかと思っていたのです。
理由はわかりませんが、私のような軍人ではない者がこの事件に呼ばれたように、相手もこの戦争からは少しはずれたところにいる、異質な人物なのではないか。
そんな気がしました。
そして、その彼が近くにいるという確信もありました。
やがて、ヒトラー総統の会議室からかなり離れた森のそばの砂利道に着きました。
私の
直立した二本の棒があるように、その間だけ靄が見えません。
神経が高ぶっていきます。
伸びをしたあとに感じる、ぱあっと意識が鮮明になるような感覚がありました。
少し遅れて、その何もない空間が動きました。
あわせて、ジャリっと湿った土が動くのが聞こえました。
私にわかるよう、わざと鳴らしているのです。
こわばる頬を緩めながら「平静。呼吸。集中」とつぶやきました。
やがて、砂利の音は聞こえなくなりました。
代わって、若い男性の声が聞こえました。
夜道の中央から。
私の正面から発せられました。
「
私にも聞き取れるドイツ語でした。
わかるように、ゆっくりと話しているのです。
「
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