ハンス・ユンゲの手記(5)
翌日から私たちはセンセイ・シオタの合気術を学ぶため、鉄道引込線のそばに整列した。
その日は好天で、鉄条網に囲まれた土の上に非番の15人が集まっていた。私も含めて士官と下士官ばかりだ。まずはシオタの武術を披露してもらい、今後の予定を決めることになっていた。
集まってきた者たちは武装親衛隊から選ばれた精鋭ではあったが、急ごしらえの寄せ集め集団だ。お互いに顔を知らないばかりか、本当に透明人間なんかいるのかという、そこから説明しなければならない者までいた。
そしてそれだけではなく、もう一つ別の理由で、即席の練兵場にはただならぬ険悪な空気が漂っていた。
陽光の下に立つシオタの姿はなんとも小さく、頼りなく見えたからだ。
私にとっては目の前で透明人間を投げたという事実があまりにも大きく、彼を疑うことはなかった。この達人からあの不思議な技術の一端でも得られるならと勇んで参加した。だがここにいる連中にはその現場を知らない者もいる。彼らはお互いに顔を見合わせ、複雑な視線を交わしていた。
「ユンゲ」
ディーツェ中尉が私に声をかけた。六フィートを超えるがっちりとした軍人の声に、はっきりとした怒りが入っていた。
「こいつはひどいペテンだぞ」
予想以上に中尉の声は厳しい。返答を喉で止めた。
「あれでは武術も何もないだろう。誰が取りつくろって透明人間を倒したって話になった?」
「小官が目の前で見た」
「体裁はいらないと言ったはずだ」
「事実だ」
「貴官が根っからのドイツ人で、なに一つ面白い冗談が言えない、それは理解した。じゃあ言い換えよう。彼は我々に何を教えるという話になっている?」
「武術だ。日本の」
私が目をシオタに向けた。中尉の視線もつられた。シオタは私たちの会話を聞き取れてはいないだろうから、きょとんとした顔のままだ。何かを小声でつぶやいた。
「そろそろ始めましょうか」
シオタの言葉を通訳が伝えてきた。ディーツェ中尉は直立不動の姿勢で、ぐっと腹に力を込めて大声を出した。
「ご高説をいただく前に拝見したいことがある!」
中尉の声に、徐々に不安がこみあげてきた。この態度が筋違なのはわかっている。だが、たしかにこの広々とした場所では、この人が救国の達人といわれてもなかなか信じられないのはわかる。
体重でいえば、シオタはディーツェ中尉の半分もないだろう。それに彼が透明人間を倒したときは、一瞬のタイミングと奇襲で投げたように見えた。どっしりと腰を落として組み付いてしまえば、いかなる武術でも力でつぶされるかもしれない。中尉が彼を叩きのめしてしまえば、全員のやる気がそがれてしまう。
不安に思って視線をもう一度シオタへ移した。ところが、当の本人はなぜかディーツェ中尉の態度がいたく気に入ったかのように、ぱっと顔を明るく見せた。
「どういったことを見たいのでしょう」
「貴職の実力だ!」
「ふむ、実力とは」
「言うまでもなく」
瞬間。
意気揚々と話していたディーツェ中尉が消え失せた。
「なんだ?」
居合わせた親衛隊たちが初めてざわめき、一歩後ずさった。
遅れて中尉が天から降ってきた。冗談ではなく。しりもちをつき、ごろりと後転して私の脚にぶつかった。
「どうした?」
「なんだこいつは?」
私と中尉が同時に聞いた。全員が、何が起きたとお互いにつぶやいた。シオタはそれを見て愉快そうに笑みを向けると、静かに通訳を通して話し始めた。
「いくらでも
シュミット大尉が一歩進み、いつも通り機械のような声を出した。
「中尉、下がれ。センセイ・シオタ。先日も申し上げたが、私は親衛隊大尉、クラウス・シュミットだ。集まった者の中では最上位にあたり、本日の訓練に際しては私の指示を通していただく」
「ああ、そうでしたか。それは失礼しました」
「シーラッハ伍長、かかれ」
「はっ?」
突然名指しにされ、下士官はぎょっとしてシュミットを見た。
「かかれ!」
「射殺しろと?」
伍長が拳銃に手をかた。
何を極端なと思ったが、確かに親衛隊が「かかれ」と言われたら、それは殺せということだ。殺すために合理的な手段となると、銃で撃てということになる。
「手段は問わん!」
伍長は戸惑っていたが、シュミット大尉の強い口調を受けると緊張を押し殺し「了解」と返答した。
まさかと思ったが、シーラッハは命令を真に受けて拳銃を抜いた。わざわざ人を同盟国からよびつけておいて、殺してしまうつもりなのだろうか。
だが、その私の思考よりも早く、シーラッハまでが私たちの視界から消えた。
「うわあっ!」
銃声と悲鳴が空に響いた。
シーラッハが起き上ったディーツェの上に振ってきた。二人は重なってもう一度転がり、シュミットの足元で地面に手をついた。銃弾は明後日の方向へ飛んで消えた。
「ふむ……」
シュミットからは二人を罰するような言葉は出なかった。さしもの彼も、目に浮かぶ動揺と驚愕が隠せていない。
今見た動きをなんとか思い出そうとした。
一度目は、ほとんどわけがわからなかった。シーラッハの時はもう少しはっきり見えた。拳銃を持つ右の手首を握ると、一直線に形をそろえてから空へ向けて押し込んでいた。だがそれは腕力で持ち上げたという意味ではない。まるで自分から飛んだように見えた。
あの、透明人間が襲ってきた時も、シオタは手首をつかんで投げていた。彼の武術は手首を取ることになにかの意味があるのだろうか?
二人が吹き飛ぶのを見て、シュミットは表情も声も変えないままシオタへ質問を始めた。
「センセイ・シオタ。ここにいる全員を相手に勝てますか」
「一人ひとり、素手なら」
「では一人ひとり、刃物では」
「はあ。まあここにいる皆さんだけでしたら」
「では、全員が同時に、刃物では」
「怪我をしても良いのであれば」
「全員が同時に、拳銃では」
「それは少々……幾人かはお亡くなりになるかと……」
シオタが無造作に答えたが、幾人、というのに本人が含まれているような口ぶりではない。
「武器を捨てろ。まず素手でこの男を取り押さえる」
シュミットが全員を見渡す。親衛隊たちがめいめいに腰を落としたり拳を握ったりした。だが、この時。
シオタとその周囲を取り巻く異様な気配から、『取り押さえる』程度の覚悟では足りないことがわかった。はっきりと説明できないが、我々はすでにシオタの術中にいるのだ。シオタを取り押さえようとするその直前、確実に投げられる。そうした公式がそれぞれの頭の中に出来上がっているのだ。
「どうした」
シュミットが見渡し、ようやく全員が動き始めた。だが、一定の距離より踏み込む者はいない。取り囲むまではできても、とびかかることができない。
「どうした!」
シュミットが再度叫んだ。さっきの失態を恥じてか、ディーツェ中尉が突っ込んだ。そして彼はもう一度吹き飛んだ。真後ろに。シオタの両肩につかみかかろうとした瞬間、フィルムを巻き戻したように逆方向へ飛んでいった。
中尉の体を受け止めて横へ放り、シュミットがシオタの前に立った。自分の胸くらいに位置する襟首をつかもうと手を伸ばした。とびかかる勢いを利用されたくなかったのだろう。襟首をつかんで引きつけようとしている。
シオタがパーンと手を払って下がった。シュミットが追いかけ、今度は左手を突き出した。また払われた。三度、大きく飛びつこうと左腕を伸ばした。その軌道をシオタの両手がわずかにそらし、吸い付くようにその腕をからめとった。
「おおっ!」
初めてシオタの気合を聞いた。シュミットの巨体が舞った。巨体が車輪のように地面へ転がる。
信じられないと目を見開いている。この男が表情と呼べるような顔をするのを初めて見た。
見るだけでは理解が追い付かない。自分で知るべきだ。覚悟を決めると、私はシオタめがけて駆け寄った。
最初にフェイントをしかけた。左手をさっと突き出すふりをしてから、横殴りに右拳を振り回した。ぐっとシオタが大きく身をかがめた。下へ。そう来ると思い、わざと踏み込みを甘くしておいた。蹴り飛ばそうと足を振り上げる。
その足が妙な方向へ導かれた。
「なんだ?」
踏ん張る力が抜かれたようだった。私が足を浮かせる前に、シオタがその足に手をかけていたのだ。足ではなく脳が揺れた。大きく視界が回転した。
空が見え、そして逆さになった地面が見えた。
客観的には、私はシオタに投げ飛ばされたように見えただろう。だが感覚的には違った。吸いこまれる、一体になる、そういう言い方のほうが近かった。まるで、自分がシオタの一部になってしまったかのようだった。私の全身はいわばシオタの手の先に増えた、もう一つの腕になっているのだ。
シオタが透明人間を投げたのが見えた理由は、もはや明確だった。
人間は上半身が回れ右をしていれば、下半身の動きが見えなくてもおおむね想像はできる。知覚と経験によって、連結したものの動作は脳の中で描くことができるからだ。
シオタは透明人間と一体化したことで、その存在を私にまで感じさせたのだ。見えたかのような錯覚まで添えて。
これが合気術か。
これは単なる力学ではない。私を吹き飛ばしたこの技には、限りなく多くの要素が込められている。スピード。タイミング。集中力。膨大な人間の行動パターン。攻撃に使われる思考。彼我の距離と立ち方。神経の反射。痛覚。骨格の構成への理解。関節の構造への理解。そのすべてを包括しているのだ。
我々が技術という場合、それは練習によって正確性を上昇させることを意味する。シオタの技術はそういう質のものではない。もっと精緻で、知的で、論理的だ。
もしこれが合気術なら。日本人が編み出した武術であるのなら。なんと高く積み上げた技術なのか。呆然とするような完成度ではないか。
皮膚を擦りながら土の上に転がった。揺れる青空に冗談のような光景が見えた。厳しい訓練に耐えた武装親衛隊が四方八方へ弾き飛ばされている。一人としてシオタに太刀打ちできていない。
透明人間に遭遇した以上の驚きだ。
我々の選択は正しかったのだ。
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