第三章 連戦連勝

欧州回顧録「郵便配達を頼まれる」

 二週間の訓練はかなり濃密なものになりました。

 さすが親衛隊員の皆様は呑み込みが早く、合気術を我が物としていく者もいらっしゃいました。


 その中に一人、堅実に技術を積み上げており、以前はヒトラー総統の従卒をされていたハンス・ユンゲさんという中尉殿がおりました。

 透明人間を倒したただ一人の親衛隊で、最初に私と話した方でもあります。


 そのハンスさんが、練習後の夕方に私の居室を訪ねてきました。


 分け目をつけずに髪を全部後ろになで上げた金髪に、落ち着きのある灰色の目。

 軍服の似合う精悍な体格ですが、どこか憂いを帯びた表情の青年でもありました。

 そしてなんとも固いといいますか、神妙な面持ちです。

 右手を上げる敬礼を向けましたので、私も返しましたが、これまで聞いてきたような勢いを帯びてはいませんでした。


「センセイ・シオタ。お時間をいただき感謝する」

「奥の椅子へどうぞ」


 彼は通訳さんを通じて話しはじめました。


「まずはこちらを。私からで申し訳ない。総統閣下から直接お渡しする予定だったのだが……」


 言いながら、ハンスさんが机の上に鉄十字勲章を置きました。

 ありがたみがあるのやらですが、ともかく丁重に頂いて懐にしまいました。


 こちらは出すものもないので、私は潜水艦でいただいた恩賜のたばこを取り出し、火をつけました。

 ハンスさんはそれを所在なげに吸いましたが、灰が落ち切ってもなかなか切り出そうとしません。


「どうなさいましたか」


 私はたばこをポケットにしまいながら聞きました。


「これまでの指導への感謝に来たのだ。実は今後、小官はこの任を外れ、第12装甲師団への異動が決まった。英軍の侵攻が予想されるノルマンディを守る部隊だ」

「おや」


 ユンゲさんの話し方は鋭く固いものでしたが、なにかためらいのようなものを感じました。


「それは急ですな」


 私はユンゲ中尉にもう一本たばこを差し出しましたが、彼はそれを丁寧に断ります。


「小官は現在、総統の従卒を外れ、透明人間の対策部隊にいた。しかしセンセイ・シオタに来ていただいたため、もう私の経験は不要となったらしい」

「は、そうなのでしょうかな」


 言いたいことがいまいち掴めず、お払い箱になった愚痴かなと思いましたが、彼はそこで言葉を区切り、予想もしなかった本題に入りました。


「大変申し訳ないのだが、ある人物へこのノートを届けて頂きたい」


 ユンゲさんは二冊の本を袖机の上に置きました。

 紙はまだ真新しく、何かを書いたばかりなのか、インクの匂いも残っています。


「どなたへ?」

「ヒトラー総統の秘書、トラウデル・ユンゲだ」


「ユンゲ」

「小官の妻に当たる」


 おや、という顔をしましたが、ユンゲさんはそのまま続けました。

 自分の奥さんの話なのに、ずいぶん持って回った話し方です。


 どうも話を聞くと、ユンゲさんはこの事件が起きてから、透明人間の逆襲を防ぐため、奥さんを含むそれまで同僚とは会うなと命令を受けていたそうです。

 そこで、今までのことを伝え、妻に別れの挨拶もなかったから、内密に彼女へ手記を渡してほしいというのです。


 規則に厳格な親衛隊員から、このような話が出たのは意外でした。

 本人にも相当の困惑があったようです。

 彼は私へも通訳さんへも再三の口止めを訥々とつとつとお願いしました。


 私も家族を家に置いている身ですから、離れ離れになる辛さはわかります。

 従卒にも戻らず、前線に行くのは本意なのか、気になりました。


「透明人間の対策で残りたいと希望しなかったのですか。でなければ総統の従卒に戻るとか」

「命令に従うのが親衛隊だ」

「中尉が何をなさりたいか、それをお伺いしたいのです」

「よきドイツ人として、総統への忠誠を全うすることだ」


 口ではそう言いつつも、声には悲しみをたたえています。

 灰色の目の奥に、打ち明けられない思いがあるのがわかりました。


「せめて、このノートはご自分でお渡しになられては」

「小官はここにいないことになっている」

「なんだかそれでは、あなたが透明人間ではありませんか」


 そういうと、彼は初めてくすりと笑いました。


「そう考えたことはなかったな」


 その一言が出てからは、彼の態度も幾分か和やかになりました。

 しかしユンゲさんはやはり今すぐ去ってしまうそうです。

 彼はもう奥さんにお会いすることはできないので、記録だけを渡したいという一点張りでした。


 結局、私はそのノートを受け取りました。


「第三帝国が勝利すれば、こんなものを書いたことも単なる気の紛れだ」


 ユンゲさんはそう続けました。

 しかし、私はどうしてもこのまま彼を行かせてはいけない気がしました。

 悪い予感が頭を離れなかったのです。


「このノートには透明人間のことしか書いていないということですが、それならせめて、あなたの声を残してはいかがですか」


 仕事と関係ないうえに、部外者が言うことでもないのですが、思わずそう言ってしまいました。


「声とは?」

「録音ができるでしょう。こんなに設備がいろいろとあるのだし」


 柄にもないおせっかいですが、なぜか譲る気にはなりませんでした。

 戦時中のことですし、いくらヒトラー総統の近くにいて比較的安全だとはいえ、彼らがロマンスに割いた時間は本当に微々たるものだったでしょう。

 そう思うと、やけに強情な気持ちが芽生えてしまったのです。


「マグネトフォンのことなら、あれは総統の演説を記録するものだ。私用は許されない」

「あなたがそれを伝えないなら、私もあなたの要望を聞きたくない」


 そこまで言い切ってしまいました。

 結局、私の案は取り入れてもらうことになりました。

 録音機は国家放送協会で使っているのはドイツの誇る交流バイアス方式です。

 すばらしい音質で記録できました。

 内容はドイツ語なので私にはわかりません。

 ただ、奥さんのことを思う気持ちが伝わればとのみ祈りました。


 こんなわけで、まったく変なことをしてしまいました。

 しかし実はこの横紙破りは、別の意味で正解だったのです。

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